伊緒さんは甘いものが大好きだ。
和菓子も洋菓子も喜んで食べるけれど、クリーム系のお菓子が好みのようだ。
どちらかというと男性に比べて、女性に甘党が多いように感じるのは、多分気のせいではないと思う。
最近でこそ「スイーツ男子」なる定義が浸透して、甘党の男性が大手を振るってお菓子を食べたりしているけれど、長らく「男が甘党とは恥」みたいな風潮がたしかにあった。
江戸時代には「いもたこなんきん」などと言って、ふんわり甘ーく煮たお芋とタコと南瓜は女性の大好物の代名詞とされていたそうな。
やわらかな食感と甘み、という点では現代と変わらない嗜好なんだろうと思う。
でも、もちろん大昔から甘味が大好きな男性も存在したわけで、かの織田信長や徳川家康だってお酒よりもスイーツ派だったと伝わっている。
と、いいつつお酒も甘味も両方ござれという猛者もいたりして、焼酎片手にお饅頭をいくつも平らげるというから凄まじい。
ぼくはどちらも強くはないけど、あえていうなら甘味の方がいいかもしれない。
伊緒さんと同じ会社で働いていた頃、つまり彼女と出会ったばかりの頃、作業が詰まって残業し、夕食をとれないことがざらだった。
社員も派遣スタッフも銘々に携帯食糧を用意して、それをかじりながら仕事をしていた。
ある晩に、校正が仕上がった原稿を伊緒さんのデスクに返しに行くと、折悪しくというか折良くというか、ちょうどもふもふと何か食べているところだった。
貴重なカロリー補給の時間であり、女性がものを食べているところをじろじろ見るのもデリカシーのないことなので会釈だけして原稿を置き、その時はささささっと自分の席に戻ったのだった。
しかし何を召し上がっていたのか、パンのように見えたけどかわいかったなあ、ハムスターがひまわりの種でもかじってるみたいだったなあ、と感じ入ったのをよく覚えている。
ところが、どういうわけか次の日も原稿を返しに行くと伊緒さんのもぐもぐタイムにぶつかってしまったのだった。
決して狙ったわけではない証拠に、前日にぶつかった時間とはずらすようにしていたのに。
「ごめんなさい、はしたないところを」
かじりかけのまーるい物体で口元を隠して、伊緒さんが恥ずかしそうにそう言った。
「こちらこそ、お取り込み中すみません」
ぺこっと頭を下げた瞬間、彼女の食糧に目がいった。
どうやらクリームパンのようだ。
聞くと昨日食べていたのもクリームパンだったそうで、甘いものがお好きなのだという。
「お腹空きますもんね。でも身体にはよくないですよね……」
思わずぼくがそうこぼすと、
「そうですよねえ。最近食事がぞんざいかもしれません」
と、伊緒さんが困ったような顔をした。
その時までは割にクールな方だと思い込んでいたので、そんな表情とのギャップがすごく心に残ったのだった。
それと前後してひょんなことから、本やマンガの貸し借りをするようになって仲良くなっていったのだけど、最初期のコンタクトはこんなことがきっかけだった。
ぼく自身もそうなのだけど、甘いものを身体が欲するのはすごく疲れたときとか、ストレスがたまっているときなどが多いようだ。
伊緒さんもやっぱりそうみたいで、そんな時にはいつにもまして甘味が欲しくなるという。
ある仕事帰りの晩のこと。
その日は伊緒さんも編集プロダクションとの打ち合わせで街に出てきており、待ち合わせて食事をして帰ることにした。
最寄りのファミレスに入って一息つくと、どっと疲れが押し寄せてきた。
伊緒さんも珍しくぐったりしており、和風パスタとたまご雑炊をはんぶんこしてちゅるちゅる食べると、ようやく少し元気になった。
おなかはすごく空いていたのに、疲れが過ぎるとかえってボリュームのあるものは受け付けなくなってしまう。
かといってあっさりしたパスタと雑炊では何となくもの足りず、ドリンクバーを行き来しながらついついまたメニューをめくってしまう。
「飲み物とってくるね。晃くんは?」
伊緒さんがそう言って席を立ったけれど、荷物の番をすることにした。
それにしても眠たい。
とりあえず伊緒さんとご飯を食べて、あったかいハーブティーなぞすすっていると安心したのか、わずかな時間ウトウトしたようだ。
向かいの席に人が座った気配がして、彼女が戻ってきたものと思い顔を上げると……。
「やあ、ボーイ」
そこにはこんがり日焼けした濃ゆい顔の中年男が、パツパツの白いタンクトップ姿で鎮座していた。
そやつの目の前にはなぜかパフェ。しかももう半分くらいは平らげている。
これが悪い夢だと理解したぼくは、夢の中で顔でも洗えば心地よく目覚めるだろうと思って素早く席を立った。
が、後ろからすごい力で手首を掴まれてたたらを踏んでしまった。
「無視とはごあいさつじゃないかネ、ボーイ?”かんたんチーズフォンデュ”の回では心を通わせたじゃないカ」
回ってなんだ、回って。
ああ、くそ、この男のことはすごくよく覚えている。「未来のぼく」と名乗る奴だ。
というか、ぼくは将来こんなふうになるのか。
それよりこれは夢のはずだけど、掴まれた手首がみっちりと痛い。
あきらめて席に着くと、未来のぼくは食べかけのパフェをずずずいっ、とぼくの目の前に突きつけた。
「これは何かネ、ボーイ」
「パフェ……です」
全面的にあきらめたぼくが丁寧に答える。
「すばらしい。ほとんど正解だロウ」
ああ、なんかむかつく。早く覚めろ、夢。
「では私がなにを伝えに来たか、分かるネ?」
知るものか。
あたたかなまなざしでその先の答えを促す雰囲気がカンにさわって、ぼくはそっぽを向いた。
するとやにわに、
「たわけ!このサノバビッチめ!」
と、聞いたことのないような叱られ方をしてしまった。
呆気にとられているぼくを尻目に、男はぷんすかぷんすかと怒りながら、滔々と諭しだした。
「いいかネ、ボーイ。彼女は見ての通りとても疲れている。あの顔色と食欲のなさには君も気づいているだろう。私がわざわざ目の前で食べてみせたパフェは、”完璧”という意味の”パルフェ”が語源だ。こういったキラキラのスウィーツは女性の好むところだが、何よりも疲労して普通の食事を受け付けない身体には、最高の回復薬になるだろう。だがネ、大人の女性はこういうものを食べたくとも、なかなか恥ずかしくて言い出せないものなのだよ。盆と正月と釈迦降誕会と五龍祭がいっぺんにやってきたような見た目もあるが、”大食いだと思われたくない””カロリーオーバーだと思われたくない”という恥じらいもあるのダ。だからこそほれ、君が率先してパフェでも食べたいなあー、と振ってあげるのがジェントルというものだとは思わないかネ」
……長い。
でも、ぼくはぐうの音も出なかった。
この人の言うとおりだ。彼女の体調をちゃんと観察して、いま身体が欲している食べ物を提案するのも思いやりだ。
それは普段から伊緒さんがぼくのためにしてくれていることにほかならない。
ぼくが口を開こうとすると、未来のぼくはすっ、と席を立った。
「あ……どちらへ」
「いや、次はコーラにしようかト」
ドリンクバーかよ!
ぺたぺたと遠ざかる男の背中を見送って、ぼくはもう一度さっきの言葉を反芻した。
なんだかすごく大事なことを教えてもらった。邪険にして申し訳なかったと思っているうちに、また向かいの席に人が戻る気配がして顔を上げた。
「遅くなってごめんなさい。なんだか混雑してて」
伊緒さんだ。
ぼくはさっそく、さっきの男のアドバイスに従った。
一緒にパフェでも食べませんかという提案に、伊緒さんは予想の斜め上をいくくらいに喜んでくれた。
「うれしい!たべたいたべたい!」
そうはしゃいで、あれこれ迷って彼女が選んだのはフルーツパフェだった。
釈迦降誕会と五龍祭がどんなものなのか分からないけれど、たしかにものすごくかわいくて楽しげな食べ物だ。
「晃くんは?どれにする?」
わくわく、といった感じで伊緒さんがメニューをこちらに向けてくれる。
うまいこと彼女の第二希望を探り当てて、それを注文しよう。
さてさて、どれがいいのかな。
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