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【紀伊 零神宮のあやかし文化財レポート】幕間 あかり先生の歴史講座 〜隅田党武士団のこと〜

小説
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はい。みなさん、ごきげんよう!
教科書は――そう、今日も使いません!

さてさて、今回は北条時頼とともに紀ノ川の大鯰と戦った、“隅田党”のお話です。

和歌山県橋本市の東、奈良県五條市との境あたりにその名も“隅田”という地域があります。
在地の武士団を育んだ土地で、氏神の隅田八幡神社は国宝の「人物画像鏡」を伝えたことでも有名ですね。
この銅鏡は現在、東京国立博物館で展示されています。

この地を拠点とした“隅田党”は鎌倉時代の終わりには強い影響力をもち、紀伊国守護・北条氏の被官として京に出仕したことが知られています。
なかでも有名なのは、六波羅検断・軍奉行を務めた“隅田忠長”でしょうか。

しかし後醍醐天皇の倒幕挙兵である“元弘の変(1333年)”で、惣領家を含む多くの隅田党が自刃。

その後上下関係があいまいとなった隅田党は南朝方につき、やがて紀伊国守護となった三管領の畠山氏に仕えます。

畠山氏が没落した戦国時代には織田信長の配下となり、天正9年(1581)の名高い“馬揃え”にも参加したそうですよ。

代替わりすると秀吉にも仕えて文禄の役にも出兵しましたが、やがて武士団としての隅田党は衰退していきました。

そんな知られざる在地勢力の隅田党ですが、ものすごい力を持っていたことを示す古文書があるのですよ!

その名も「葛原かつらはら家文書」。
ここには隅田党が取り仕切った放生会における、饗応の献立が記されています。
そう、ひらたくいうとパーティーのメニュー表です。

ちょっとそのいくつかを見てみましょうね。

ゑひ(海老)
こいさしミ(鯉刺身)
あわひしほ(鮑塩)
かまほこ(蒲鉾)
からすミ
このわた
くるミ
まつたけ
まんちう(饅頭)
さたうやうかん(砂糖羊羹)
たいのこ(鯛の子)
まなかつほさしミ(真名鰹刺身)

ふう。
高級食材のオンパレードですねえ。食べたことないものがいっぱいあるわ。うふふ。

これは永正9年(1512)年の放生会饗宴の献立で、いわゆる”本膳”にあたる本格的なものでした。
七五三の膳15献に、お能15番を上演するという超絶豪華なパーティーでした。

特筆すべきは、これ以外に3膳のお料理を100人前、1膳のものを200人前も用意した点です。

これは身分差によるメニューの区別とは考えられていますが、なんと最低でも1品はお料理が共通するよう、配慮されていたのです。

“共食”によって、絆を深める意味があったとされていますね。

それと、メニューを見るとなんとも海の魚介の多いことがわかりますよね。
隅田の地は海から直線で60km以上離れた内陸部。
わたしの注目ポイントは、

「まなかつほさしミ(真名鰹刺身)」

です!
これは現在でも好まれる食材ですが、真名鰹はたいへん傷みやすいお魚。
保存技術が限られていた当時において、それをお刺身で食べられる鮮度を保って輸送する手段とルートを、隅田党はもっていたことになります。

真名鰹は中世の宴会で好まれたメニューだったようで、あの織田信長が安土で徳川家康を接待したときにも出されているんですよ。

あともう一つ。

「さたうやうかん(砂糖羊羹)」

です。
わたしも大好きなお菓子なのですが、実は砂糖が国産化されたのはやっと江戸時代半ばになってのことです。
それまでは中国や琉球から輸入せねば手に入らない、超高級品だったのですね。

隅田党のパーティーメニューは豪華というだけでなく、これだけの質・量の食材を揃える経済力とパイプを見せつける意味も大きかったのではないでしょうか。

地方の武士団とはいえ、ここまでの勢力を誇った隅田一族。
その地にはいまも、末裔の方々が暮らしておいでです。

おっと、もうこんな時間ですね!
高野山のお話は次の機会になりそうです。
これについてのテストはありませんので、安心してくださいね。

はい、ではでは今日の授業はここまで。
またねー!

次のお話↓

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