千鳥の盃
小糠雨があじさいを艶やかに濡らし、幾億もの水滴がその球に世界の形を映し出している。
樹々の間を縫って次から次に湧き立つ霧は白く清浄で、小さな龍に姿を変じてたゆたうかのようだ。
初夏とはいえ、雨に降り籠められたここは寒い。
紀伊国一之宮、丹生都比売神社が鎮座する天野の里は。
小屋根の廂から無限に落下する雨垂れを、ただぼんやりと眺め続ける。
その向こうには見事な半円を描いた太鼓橋が優美に横たわり、それが架かる鏡池には夥しい波紋が生まれては対消滅を繰り返している。
わたしは、ほうぼうが擦りむけて赤くなった冷たい両手にほうっと息を吹きかけた。
そうして道場の木床に直立し、全身の力をゆるめていく。
目を閉じて、
耳を澄ませて、
呼吸を整えて。
再び目を開くと同時に、腰の小太刀をゆっくりと横薙ぎに抜き放った。
その太刀筋はとりとめもなく、天から遣わされた無窮の雨滴へと吸い込まれていくばかりだった――。
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あの夜bar暦に招待してくれたユラさんは、わたしにあやかし文化財パトロールの任から降りることをすすめた。
実際にはすすめたのではなくて、頭を下げて頼んだのだ。こんなわたしに向かって。
行きがかりであやかしたちと結界守の世界に関わることになったわたしの身を、ユラさんはずっと案じ続けてくれていた。
その懸念は先日の和歌山城襲撃事件で覆しようもなくなり、実際にわたしだけではなく多くの結界守たちが命の危険にさらされた。
けれど、わたしは気に入らなかった。
守られるだけのわたし自身が、そしてそれらをすべて背負って涼しい顔を装っている、ユラさんのことが。
この時わたしは、いつの間にかだいぶ飲んでいたようだった。ユラさんが魔法のように調えてくれる、日本酒ベースのカクテルがあんまりおいしかったせいもある。
でも、どういうお話か見当がついていたこともあって、かなりのペースでグラスを空けていたのだ。
「護法童子の加護があれば、今ならあかり先生はこれまでの日常に戻れると思うんよ。どうか、これ以上は私らとは関わらんようにしてほしい」
そう言って頭を下げたユラさん。
きれいな眉が苦しげに顰められているのを見て、わたしの中の何かがぷつんと途切れてしまった。
――ああ、お前、ほんとに、イケメンだな。
結婚してくれよ――。
はっきりそう思いながら、わたしはそこにあった地酒を手酌でグラスになみなみと注いだ。
おむ、おむ、おむ、と子ども狂言みたいな音を立ててそれを飲み干す。
「ちょっ…あかり先生…?」
ユラさんがびっくりして顔を上げた。
そうだろ、びっくりしただろ。
「……なあんもよう」
わたしは空のグラスをだんっと置いて、このイケメンにお説教をすることにした。
「おめえよう、はんかくさいんでないかい」
「はんか……えっ…?」
ユラさんはまさしく鳩が豆鉄砲を食ったという、初めて見るような顔をしている。
うん、いいぞ。
自分ではかなり冷静なつもりだったのだけど、後でユラさんに聞いたところによると、この時のわたしは「ただならぬ仕上がり」だったそうだ。
「そいで、この店も畳むっつうんでねえべか」
勢いづいたわたしはくだを巻き、地酒の瓶を手元に引き寄せてしっかりと抱えた。
「見てみれや。爺っちゃ婆っちゃ方が、はあ、“まんずいい店だったけんにょも、閉めたんだべか。やいや、ワヤだあな”っつって悲しんでるべや」
無論、概念上のことである。
けど、ありありとその光景がみえるわたしはとっても悲しかった。
神社のカフェ、この「暦」というお店がたくさんの人の憩いの場であることを実感していたから。
「そいでおめえ、オレが足手まといなんだべ」
カッ、と嘲笑って、わたしはさらにどぼどぼと地酒を注いだ。
紀伊のお酒は、すっきりふんわりしていくらでも飲めそうだ。
水もさぞかしいいのだろう。
「ちょっ…先生、あかんて」
「やがます!」
ユラさんが慌てて止めようとするのを振り払い、わたしはおむ、おむ、とグラスをあおる。
かあぁ、なんまうめえ。
「そりゃあ、オレぁものの役にゃ立ってないさ。んでもよ、店さ畳んでおめえ一人が修行して強くなるだあ?それがあずましくないっつってんだべ」
「あずま…?……ん?」
どうだ、言葉さわがんねえべ。
オレだっておめえらのゆってることわがんねときあるさ。
「明日ハローワークさ行ってこお。んで、店は腕のいい職人さ任せれ。したっけ、オレも修行さするぞ。強くなってはあ、背なさ預けられりゃあ文句ないべ」
そう言って、わたしは最後のひと口をおむ、と流し込んだ。
「え…?え…?」
ユラさんが、すっかり混乱している。
「オレぁ!ガッコの!せんせえだの!子ッコら守るんはよう、責務以下の当たり前でないかい!もうおめえにオレを守らせねえよ。強くなってはあ、オレがおめえを守ってやるべよ!」
そこまで叫んだらもう感情の堰が決壊してしまい、ますます悲しくなってもう一度酒瓶を掴んだ。
「あっ、あかり先生あかんて!もうやめときなはれ…」
「やだっ!今夜は飲み放題ってゆった!うそつき!イケメン!このクールビューティー!!」
そうしてわたしは酒瓶を握りしめたまま、わんわん泣き出してしまった。
いやだ、いやだ、このお店が閉まるのも、ユラさんとの関わりが絶たれるのも、絶対にいやだ。
「もう……この子はほんまに…」
そう言いながらユラさんはカウンターを出て、わたしの隣に腰掛けてやさしく肩をさすってくれた。
「でも、おおきにな」
その声を聞いたわたしは、ますます大きな声で泣きじゃくった。
――いい匂いがする。
ぱちりと目を覚ましたわたしは、ガツンと殴られたかのような頭の痛みに思わずうめいた。
まぶしい朝の光、見知らぬ部屋、見知らぬ天井。
夜に大泣きしたところでぷつりと意識が途切れているが、おそろしいことに他のすべてははっきりと覚えている。
見知らぬベッドの上のわたしは、これまた見知らぬ白い浴衣のようなものを羽織っている。
「念のためやねんけど…」
ふっと枕元からユラさんの声が降ってきた。
湯気の立つコーヒーカップを2つもち、パジャマのようなジャージのようなゆるゆるの服を着ている。
長い髪は無造作な2つ結びに垂らして、お化粧をしていない顔はかえって幼く見えた。
「ここはお店の2階、私の部屋。運ぶ途中で先生がどんどん服脱ぎ出したさかい、浴衣だけ巻かせてもろたんえ。念のため」
私、何いうてんねやろ。と言いながら、ユラさんが枕元のサイドテーブルにコーヒーを置いてくれた。
すごくいい香り。
cafe暦の香りだ。
「いっしょに行こか」
ユラさんがぽそりと呟く。
「ハローワークと、天野」
わたしは、できるだけクールに聞こえるように、
「…予定を確認しておきましょう」
とだけ答えた。
ユラさんはほんの少しだけ片眉を上げて、さも重要そうにこう質問した。
「…で、目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちしかええのん?」
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