「才能」ってつまり何のことだろう
「才能がある/才能がない」という言葉は、これまで幾度となく耳にしてきました。
特に創作を志して小説を書くことに取り組むようになってから、この「才能」を理由に悩む人や、他者からの評価に度々使われるのを目のあたりにしています。
結論からいうと創作に限らず、たしかに才能というものは存在すると感じています。
ですが私は自身の才能の有無について悩んだことはありません。
端から自分自身に創作の天分など一切期待していないからです。
しかしそれでも行き詰まった時には、どうしても才能としか言い表しようのない壁を感じるのも正直なところです。
そこで「才能」について悩んだ時、そもそも才能とは何なのだろうと原点に返って考えてみるのはどうだろうかと思います。
自身の取り組みに対する意志を再確認する上でも大切と感じ、思うところを記します。
才能=顕著な適性という定義
そもそも才能とは、どのような定義ができるものでしょうか。
自身の感覚としては「ある物事に対する著しい適性」を指す言葉です。
さらには「特別な訓練なしで成果を出す能力」といったニュアンスも含まれていると感じます。
スポーツでも学芸でも、何らかの成果を出した時に誉め言葉として「才能があるね」という人がいますが、こうした感覚や心理の裏付けではないでしょうか。
ですが、成果を出した人はいずれも才能だけが理由ではないはずです。
当然ながら日々の努力や悩み、弛まぬ研究の積み重ねで掴み取ったものではないかと思うのです。
「才能」はべんりな言葉ではありますが、何かを成し遂げるということはその一言で済ませられるほどシンプルではないものと考えます。
才能がない=取り組まない方がいい?
「才能がないから辞める」という言葉も、何度も何度も聞いてきました。
才能という言葉は呪縛でもあり、自身の取り組みに引導を渡すための理由になるほど強力なのです。
正直な感想としては、やるのもやらないのも自分自身の選択ですので自由です。
ですが才能がなければ、その取り組みをしない方がよいのでしょうか。
私自身は自分の才能をあてにしたことがないと述べましたが、それは物事に取り組む基準を「好きかどうか」で決めているためです。
やりたければやればいいし、やりたくなければやらなければいい。
創作に関してはそうシンプルに割り切っていて、そこには才能を云々する余地はないと考えています。
逆にいうと、仮りに才能に乏しいとしても、自身を懸けて取り組めるほど好きなことがあるというのは言葉にできないほど尊いことと考えます。
才能は他人と比べるときに意識するもの
才能の有る無しについては、やはり他人と自分とを比べてしまった時に感じるものではないでしょうか。
あの人はもうあんなところまで行ってしまっているのに、自分はまだこんなところで足踏みしている……。
そんな焦りで自分自身を追い詰めていくと、最終的には自分には才能がないと結論付けてしまうようになるのだと思います。
ですが自分が比べている相手も、想像もつかないような努力をしてそこに立っているのではないでしょうか。
本音をいうと他の作家さんの作品を読んで、これは遠く及ばないと打ちのめされるような思いに浸ることがあります。
それは老若男女問わず、自分よりずっと若い方の御作でも同じです。
しかしだからといって自分自身の至らなさを才能の一言で済ませるには抵抗があります。
さすがに努力だけで何でもできると信じられる歳ではありませんが、非才ならば浅学を克服するだけの勉強をするべきと念じています。
「才能」はたしかにあります。
けれどもそれ以上に、自分が心から取り組みたいと思ったことの楽しさを追求していきたいという思いが勝る限り、創作を続けたいと思うのです。
三條すずしろ・記
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