ふだんから和食でも馴染み深い調味料や飲みものは、なんとなく江戸時代にはすでにあったようなイメージがないでしょうか。
もちろん明確な起源が定かではないくらいに古い歴史をもつものも多いのですが、小説作品で登場させる際に時代考証が必要なおそろしい品目もまた存在していますね。
本記事ではそんな調味料や飲みもの、あるいは一部調味料といえるかどうかわからない食品7つについて、どの時代に登場したかを見ていきましょう!
醤油
列島に暮らすわたしたちにとってソウルソースといっても過言ではないお醤油。
これがないとそもそも和食が成り立たないのではと思うほど、大切な調味料ですね。
その原形と考えられている「ひしお(醤)」の存在は飛鳥時代の木簡でも確認されていますが、「醤油」そのものの記述が初めて登場するのは1568(永禄11)年の『多聞院日記』とされています。
これは奈良・興福寺の塔頭寺院であった多聞院において、約140年間にわたり三代の書き手によって記録された日記で当時の貴重な史料となっています。
1597(慶長2)年の辞書である『易林本節用集』には「醤油」なる言葉が収録され、それまで表記も内容もまちまちだったのがある程度一般化したとも考えられるでしょう。
室町時代以降に産業化された醤油の産地は、当初近畿地方に集中していました。
江戸幕府が開かれたのちにも関西からの輸送品、いわゆる「下りもの」の一つとして醤油が消費されましたが、江戸近郊で生産されるようになったのは1700年代以降の江戸時代中期のことだそうです。
やがて関東風の辛口な嗜好に合う濃口醤油が生み出され、1800年代以降には関西からの下り醤油の入荷量は関東産の約14分の1にまで減少しました。
江戸時代初めにはうどんやそばのおつゆも醤油味ではなく、味噌と出汁から抽出した「煮貫」や味噌を煮詰めて漉した「垂れ味噌」を使っていたことは有名なお話ですね。
したがって歴史小説で今日的な濃口醤油をイメージして登場させる際には、江戸が舞台ならば19世紀初め以降ですと遠慮なく使えるのではないでしょうか。
ですがもちろん「歴史の陰で謎の醸造職人が偶発的に醤油的なものを生み出した奈良時代的な設定」については、お醤油警察の管轄外かと思います。
砂糖
「お砂糖はむかし貴重品でした」とはよく聞きますが、それはどれくらいむかしのことかを見てみましょう。
砂糖が初めて日本にもたらされたのは754(天平勝宝6)年、唐の鑑真和上来朝に伴うものとされています。
和上をお連れした船団の舶来品リストにはいくつかの甘味料があり、そのうち「蔗糖」とあるのがいまでいうお砂糖のこととされ当時は薬品の一種でした。
また平安時代に唐へ留学した天台宗開祖・最澄も801(延暦2)年に帰国した際、砂糖を持ち帰ったことが記録されています。
以降、江戸時代の半ば・17世紀後半ごろまで砂糖は重要な輸入品目の一つであり、琉球を含む海外からの舶来品が中心でした。この時期まではやはり相当な貴重品だったと考えられますね。
日本で本格的な国産化に乗り出したのは徳川八代将軍・吉宗の時代のことであり、高松藩の松平頼恭(まつだいらよりたか)がサトウキビの栽培を推進。いわゆる「和三盆」の開発に成功します。
松平頼恭は18世紀初め~後半を生きた人ですが、19世紀半ばの天保期には国産砂糖流通量の約60%が高松藩産だったといいます。
したがってお菓子や調味料に一般的に用いられるようになったのは江戸時代中期以降のことと考えられており、前述の関東産濃口醤油の台頭と共に江戸の味覚を形成していったともいわれています。
これらのことから、歴史小説でお砂糖を登場させるのは奈良時代の鑑真来朝以後なら問題なさそうですが、江戸時代半ばまでは超高級輸入品といった位置付けが適切なようですね。
胡椒
和の香辛料といえば七味唐辛子やわさびなどがありますが、胡椒はというとラーメンや洋食に使うイメージの方が強い気がしますね。
ところが756(天平勝宝8)年の聖武天皇七七忌で東大寺に奉献された宝物のリストである『東大寺献物帳』の中の一通、『種々薬帳』に胡椒が記載されているのです。
また、正倉院御物として実物の胡椒が現存しているといいます。奈良時代すごい。
当時は生薬として使われ、平安時代中頃の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』にも「胡椒丸」という薬品として記載されています。
熱帯の植物である胡椒は日本本土では根付かず、比較的気候の近い琉球では近縁と考えられる種はあるものの、商品作物としての栽培は浸透せずもっぱら中継貿易の品目だったそうです。
ぐっと時代は下って江戸の初期、1688(貞享5)年に刊行された井原西鶴の『日本永代蔵』には胡椒の本邦伝来に関するエピソードが載っています。
内容は正確な記述とはいえないようですが既に胡椒が一般的になっていた証とも考えられますね。
また1715(正徳5)年に大坂・竹本座でで初演された人形浄瑠璃『大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)』には、「本妻の悋気(りんき)とうどんに胡椒はお定まり」という一節があり、江戸時代半ばには「うどんに胡椒」がお決まりだったことがわかります。
1802(享和2)年に刊行された米料理専門の料理本『名飯部類』には「胡椒飯」なる料理が登場し、江戸期の旅行ガイドにあたる「道中記」の類には胡椒粒を薬品として携行することがおすすめされているなど、庶民にも浸透していたことがうかがえます。
このようなことから小説作品でも奈良時代以降に胡椒を登場させることは無理がないといえるでしょう。
ただし江戸時代の初めの方で当たり前のようにうどんに七味唐辛子をかけていたら、あるいは胡椒警察の事情聴取がはじまるかもしれません。
参考文献:「香りのまちづくり-その後の展開-」『沖大経済論叢 20 (1)』山門健一 沖縄大学経済学会 1998
板海苔
「調味料」とくくるにはちょっと抵抗がありましたが、どうしても入れたかったのが「板海苔」です。
ご飯をこれで巻いて食べるのおいしいですものね。
が、歴史小説においては超重大案件の一つであるのもまた事実。
しっかりとその経緯を見ておきましょう。
ノリという海藻そのものはおそらく有史以前から食されてきたと考えられていますが、文字資料としての確実な最古例は721(養老5)年に完成した『常陸国風土記』における記述です。
701(大宝元)年に制定された「大宝律令」にも記載されていたと考えられてはいますがこの律令は現存せず、大宝律令をベースにした養老律令(施行:757年/天平宝字元年)の記述を元にした復元案におけるものです。
現在見られるような「板海苔」が発明されたのは18世紀後半の安永年間(1772~80年)のことで、既に養殖によって江戸の特産品となっていた海苔を紙漉きの技術で板状に加工したものといいます。
江戸では反故紙を漉き直すいわば再生紙生産が盛んだったため、これを応用したものでした。
ちなみに焼き海苔が登場したのは1844(弘化元)年のことで、なんとガラス瓶に入れて売られていたそうです。
これを発明した三浦屋田中孫左衛門さん、すごい。
これらのことから、上記安永年間以前に巻き寿司を頬張るシーンなどを小説で書こうものなら、板海苔警察の家宅捜索は免れないかもしれませんね。
清酒
現在イメージする透明な日本酒、つまり清酒の起源には有名な故事がありますね。
すなわち1600(慶長5)年ごろ、造り酒屋で逆恨みした従業員が酒樽に灰を入れて遁走したところ、濁り酒がきれいに澄んでいたことから発明されたというものです。
これは兵庫・伊丹のことで、のちの鴻池財閥の礎を築いた鴻池新六という人物にまつわる伝説です。
このため当地には「清酒発祥の地」の碑が建てられており、現在も兵庫県は酒どころとして知られていますね。
ところが、清酒発祥の地とされる場所はもう一つあるのです。
それは奈良。そう、あの奈良です。
「僧坊酒」という言葉があるように中世までの酒造りは寺院で盛んに行われており、奈良は酒造においても古い歴史をもっています。
室町時代に書かれた日本初の民間酒造技術書『御酒之日記』には、奈良・正暦寺(しょうりゃくじ)で製造された「菩提泉(ぼだいせん)」という銘柄のことが記されており、これが清酒の源流と考えられています。
『御酒之日記』の成立年代には議論がありますが概ね15世紀の終わりごろとされ、現存する写本は1566(永禄8)年のもので東京大学史料編纂所が所蔵しています。
正暦寺では三回に分けて仕込む「三段仕込み」、酒母の原型とされる「菩提酛(ぼだいもと)造り」、殺菌のための「火入れ」、麹と掛米の両方に精白米を用いる「諸白(もろはく)造り」などの酒造法が開発されました。
特に「諸白造り」で仕込まれたものが清酒の原型と考えられ、室町時代の嘉吉年間(1441~1444年)頃から製造が盛んになったといいます。
正暦寺の酒はその美味から「無上酒」とも呼ばれ、室町九代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ:1465~1489)が「もっとも可なり」と絶賛したことが15世紀の『蔭涼軒日録』に記されています。
このようなことから小説作品においては、概ね15世紀末からとされる戦国時代に武将が清酒を手に入れて嗜むシーンがあったとしてもおかしくなさそうですね。
鴻池の伝説にある1600(慶長5)年以前に遡れるのは、創作上いいニュースではないでしょうか。
ただしそれ以前にも濁り酒の上澄みを飲んでいたことは考えられます。
お酒の起源についてのお話は、これはもう清酒警察どころか軍の管轄になりそうな問題ですのでここでは置いておくことにいたしましょう。
緑茶
日本茶といえば緑茶のことをイメージする方も多いのではないでしょうか。
透明感ある鮮やかなお茶の色はまことに美しく、ほっとする味わいに癒されますね。
ところが、この鮮烈な緑色のお茶には明確な歴史があります。
発明者は京都・宇治で代々茶を栽培してきた「永谷宗円(ながたにそうえん)」。
1738(元文3)年、15年におよぶ研究の末に緑茶の製造法である「青製煎茶製法」を開発したのです。
日本で初めてお茶を飲んだ記録が出てくるのは、平安時代初期の840(承和7)年に完成した史書『日本後紀(にほんこうき)』においてです。
そこには815(弘仁6)年に嵯峨天皇が琵琶湖西岸行幸の帰り、僧・永忠からお茶を献じられた記事が載っています。
この時のお茶は固形にまとめたものを煎じたタイプと考えられており、その後鎌倉時代からは抹茶が広まっていったことが知られていますね。
緑茶の発明以前にも煎じたお茶は飲まれていましたが、色は文字通りの茶色っぽいもので現在でいう番茶のイメージが近いかと思われます。
緑茶は茶葉の新芽を加熱した後に揉む工程を経て乾燥させるもので、宗円の開発した緑茶を扱った江戸の山本嘉兵衛は大商人となり、現在も続く企業「山本山」の礎を築いたといいます。
このようなことから、江戸期であれば八代将軍・徳川吉宗ならぎりぎり緑茶を口にできる時代といえますね。
家継も家宣もだめ。綱吉なんて言語道断ということになりそうですが、18世紀前半登場という緑茶の意外な新しさにびっくりです。
ほうじ茶
緑茶がどちらかというと少し改まったイメージがあるのに対し、食事中などでもカジュアルに飲まれるのが「ほうじ茶」です。
歴史小説でも戦国時代に旅の僧が立ち寄った村で出されて……といったシチュエーションも絵になりそうですね。
が!待ってくださいね!!
実はほうじ茶の誕生は昭和の初め頃、1920年代という説があるのです。
日本茶の売れ行きが落ち込んでいた当時、保管方法もまだ万全ではなかったため生鮮食品であるお茶は一定期間を過ぎると廃棄処分になっていたそうです。
そこで京都の茶商が大学研究者と共同で、茶葉を乾燥・焙煎する方法を開発したというものです。
ただしこれには正確な記録があるわけではなく、もっと以前から古くなったり湿気たりした茶葉を煎って賞味したことは十分考えられるといいます。
いずれにせよ起源が詳らかでないことは変わらないため、例えば歴史小説で江戸時代などに登場させる場合は「ほうじ茶」という語を使わず、「葉を香ばしく煎ったお茶」などと状態を説明しておくことなどが手段として考えられますね。
まずは創作でも、時代によっては気軽にこの名称を使うことに注意が必要と思われます。
まとめ
ふだんの生活に深く根付いたものばかりですが、その歴史は意外に古かったり新しかったり、新鮮な驚きがありますね。
何の気なしに描写したところ、後から考えるとまだその時代にはなかったというものも少なくないため、要チェックの項目といえるでしょう。
コメント