ついひと昔前まで、北海道へ旅するにはフェリーが最も安い足だった。
いまでこそ格安の航空会社がさかんに利用されるようになったけれど、旅人にとって船は長きに渡り移動手段の王だったのだ。
伊緒さんと知り合った頃はLCCが登場する直前で、まだフェリー華やかなりし時代の名残りを留めていた。
たとえば関西からなら京都の舞鶴港から小樽まで。
関東からなら茨城の大洗港から苫小牧まで。
それぞれおよそ20時間の船旅だ。
そう説明するとたいがいは驚かれて、さぞや不便だったでしょう、退屈だったでしょうといわれるけれど、さにあらず。
船の中はちょっとしたホテルみたいな造作で、海の見える大浴場は入り放題だし、日中はミニシアターで映画を上映するし、レストランでの食事はおいしいし、時間をもてあますようなことはなかった。
それに何より、延々と続く大海原をながめつつゆったりと過ごす時間は、とってもぜいたくなものだと思う。
一番安い2等船室は雑魚寝の大部屋だったけど、そこでいろんな人と知り合うのも面白かった。
昔ながらの漢方薬を文字通り行商している人や、定年後に夫婦二人で船旅を楽しむ人、または大家族でフェリーに車を積み込んで移動する人等々、旅人のデパートみたいな感じがしたものだ。
食費を抑えたい人はカップ麺や登山用食料などを持ち込んでお湯を注ぎ、そこかしこで山賊の宴のように味わっている光景も実に風情があった。
ぼくがフェリーで北海道に旅行していたのは年に一度、伊緒さんの帰省にくっついてのことだった。
彼女のおばあちゃんの追悼式を行うのが毎年の習慣で、そのタイミングに合わせて里帰りしていたのだ。
法事、といわないのはおばあちゃんだけロシア正教の信徒だったからで、仏教と違って供養や慰霊という概念はない。
でもお盆みたいに家族が集まり、お墓に花を供えて一年間の出来事を報告し、その後食事をするというささやかなイベントとなっている。
ぼくが初めて伊緒さんのお母さんに会ったのもその会のときで、事実上結婚のお許しをいただくためのご挨拶でもあった。
もうめちゃくちゃに緊張しつつ、待ち合わせ場所である共同墓地近くの教会へと赴いたのを覚えている。
それこそ右手と右足が一緒に出てぎくしゃく歩いてしまったが、
「……古武道のナンバ歩き?」
と、伊緒さんは無邪気そのものだ。
でも、ぼくよりさらに緊張していたのは、他ならぬ伊緒さんの母上、真緒さんの方だった。
その後ろ姿を見つけて、
「母さん」
と伊緒さんが声をかけると、真緒さんはぐぎぎぎっ、という音がしそうなほどぎこちなく振り返った。
「は、はじめまして!いおちゃ……伊緒の、は、母親です!」
噛み噛みだ。
「初めまして、あ、秋山と申します!い、伊緒さ……お嬢様とお、おっふ、お付き合いさせていたらいてまふ」
ぼくも噛み噛みだ。
「こんど結婚しまふ」
伊緒さんもちょっと噛んだ。
そしてもう大事なこと言っちゃった。
噛み噛み同士、真緒さんとはすぐに打ち解けた。
おっとりしたしゃべり方のとても可愛らしい人で、伊緒さんがそのまま年齢を重ねたらこうなるんだろうなあ、という容貌だ。
おばあちゃんの墓前に挨拶をして、お花を手向ける。
これがそのままぼくたちにとっての結婚報告になって、真緒さんはニコニコしてその様子を見ていてくれた。
ではこのあと食事に、ということで連れて行ってくれたのが、かの有名な「ジンギスカン」のお店だった。
溝のついた鉄兜みたいな独特の鍋でやる羊の焼き肉で、札幌ではみんなが集まるととりあえずジンギスカン、というのが定番だそうだ。
ぼくはこのとき初めて生ラム肉のジンギスカンをいただいたのだけど、やわらかくってクセがなくって、とってもおいしいものだった。
脂はさっぱりとしているのに旨みがあり、しこしここりこりとした食感も「肉を食べてる!」という喜びにあふれている。
羊肉には一歳未満のラムと、それ以上のマトンとがある。
マトンは肉質がしっかりして羊特有の風味も強いので、初めての人には少し抵抗があるかもしれないとのことだ。
また、あらかじめタレに漬け込んだ味付ジンギスカンというのもポピュラーで、家庭ではこれがよく食べられるらしい。
鍋を熱している間にビールで乾杯、いわば家族の盃を交わす。
「んくっ、んくっ、んくっ」と、真緒さんも伊緒さんもさすが気持ちのいい飲みっぷりだ。
改めて二人を見ると母娘なんだなあ、としみじみ思うくらいよく似ている。
鍋が加熱されたところで真緒さんは、半球状に盛り上がった部分の周囲にキャベツ・もやしなどの野菜を並べ、頂上のスペースにお肉を置いた。
こうするとお肉の脂や旨みが溝を通って流れていき、下のほうの野菜に絡まるのだ。
なるほどなあ。
「ほれほれ、晃平さん。若いんだから、食べれ食べれー!」
初対面の緊張もどこへやら、ほろ酔いの真緒さんがすっかり親しげにお肉をすすめてくださる。
ジンギスカン用のタレも、普通の焼き肉のタレよりさらっとして甘みと酸味のバランスがよく、いくらでも食べられそうだ。
「晃くん、あんまり焼きすぎないほうがおいしいよ!ほら、ここ、これ食べれー!」
と、伊緒さんもかいがいしく世話をしてくれる。
なんかすごく甘やかされて面はゆい限りだけど、ふとあることに気が付いた。
伊緒さんと真緒さん、ほとんど言葉を交わしていない。
伊緒さんが生まれてすぐに離婚した真緒さんは、女手ひとつで娘を育てるためにとても忙しく働いていたと聞いている。
代わりにふだん面倒をみてくれたおばあちゃんのことを、伊緒さんはとても慕っていたという。
ある時期にはお母さんとではなく、おばあちゃんと暮らしていたそうで、母娘の関係性も単純ではないようだ。
でも、これは……。
二人の間に会話がないというのは、ちょっと辛い。
どうしたものかと思っていると、
「あっ」
と、伊緒さんが小さく声を上げた。
「夢中で食べてたら服にタレはねちゃった。しみになる前に洗ってくるね」
そう言って席を立った。
「ハンカチでも絞って、たたき洗いするんだよー」
真緒さんが声を掛け、伊緒さんは「うん」と簡潔に返事をする。
おっ、会話成立……なのかな?
「ごめんねえ、そっけない娘でね~」
苦笑いの真緒さんがそう言って、お肉をぼくの小皿に入れてくれる。
「わたしはいい母親ではなかったから。お互いどう接したらいいのか、とまどっちゃって。でも、あんなに楽しそうなあの子の顔を見たのは、本当に久しぶりだわ。晃平さんのおかげだと、感謝しています」
真緒さんのそんな言葉に、ぼくは胸がいっぱいになってしまった。
きっと伊緒さんには面と向かって言えない、親としての本音なのだろう。
「晃平さん。結婚にあたって、ひとつだけお願いがあります」
真緒さんが、まっすぐにぼくの目を見て切り出した。
ぼくも思わず、姿勢を正して耳を澄ませる。
「わたしがこんなだから、あの子は父親が帰ってくる家庭を知りません。だから、仕方のない場合を除いて、どんなに仕事が遅くなっても、必ずあの子の待つお家に帰ってあげてほしいの。それがわたしの、心からのお願い」
そこまで言うと真緒さんはにっこり笑い、
「娘を、よろしく頼みます」
と、ぼくに深々と頭を下げた。
「なしたのさー?二人とも神妙な顔して」
ちょうどその時戻ってきた伊緒さんが、真緒さんとぼくを見比べて不思議そうにしている。
「やあだよう。晃平さんにタレひっかけちゃって、謝ってんのさあ」
顔を上げた真緒さんが、てへぺろっと舌を出す。
「ええ!はんかくさい!晃くん、すぐ洗わないとしみになるよ。母がごめんねえ」
そんなやりとりにかこつけて、ぼくも手洗いに立つことにした。
なぜなら真緒さんの言葉にもう涙腺が限界で、このままだと絶対泣いてしまっていたから。
立ち上がったぼくに真緒さんがこっそり片目をつぶってみせ、ぼくは小さく強く頷いて応えた。
手洗いで顔を洗って気を落ち着かせ、戻ろうとして遠巻きに元の席を見ると、何やら話し込んでいる母娘の姿が目に入った。
伊緒さんは少し笑って、真緒さんのグラスにビールを注いであげている。
ぼくは再び涙腺がゆるんでしまい、その光景をしっかりと目に焼き付けた。
ああ。もう一度、顔を洗ってこなくっちゃ。
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