南葵楽譜と音色の結界
「コンサートって……あのコンサート?ですか?」
差し出されたチケットを前に、きょとんとしたわたしはまた阿呆のような質問を繰り出す。
「そっ。ええですよお。野外で聴くクラシック。紀伊といえば音楽、音楽といえば紀伊やさかい」
初めて聞くようなことをにこにこしながら嬉しそうに語るのは、久々のオサカベさんだ。
いつものようにふらりとcafe暦にやってきて、唐突にわたしとユラさんの分のコンサートチケットをくれたのだ。
で、これが普通の音楽会ならよかったのだけれど。
「“音楽の殿様”と呼ばれた紀州徳川家16代、徳川頼貞公。そう、頼江課長のひいおじいさんなんよ。大の西洋音楽好きやった頼貞公はヨーロッパに渡って多くの作曲家と交流し、膨大な楽譜や文献を持ち帰らはった。それで徳川家の財産を使い尽くしたっていわれてるけど、ほんまは紀伊の結界強化に音楽を利用する研究をしてたんよ。ほら、山伏も法螺鳴らしたり、音で魔を祓うっていう習俗ありますやん。それを西洋音楽で応用しようとしはったんやね」
立て板に水、といった具合でうれしそうにしゃべるオサカベさんに、ユラさんが注文のコーヒーを渡した。
目がもうぼんやりしていて、ほとんどこの話を聞く気はないぞという意思みたいなものを感じる。
けれどわたしにとっては初めて知ることばかりで、とっても興味深い話題だ。
その後延々と続いたオサカベさんの話をまとめるとだいたい以下の通りになる。
頼貞公がかつて東京の自邸に設けた音楽関係の私設図書館“南葵文庫”。
それは以後東京大学に寄贈され、コレクションの一部は読売日本交響楽団の所蔵を経て和歌山県に寄託。
2017年から、和歌山県立図書館にて”南葵音楽文庫”として一般公開されている。
もちろん歴史文化のうえでも大変に貴重なものなのだけど、そのうちのいくつかは魔を退けて結界を強める、いわば対あやかしのための曲として作られたのだという。
今回その頼貞公秘蔵の曲を野外コンサートの形で披露し、紀伊再地鎮計画の一端を担おうというのが大筋だ。
コンサート会場は、和歌山市の“岩橋千塚古墳群”。
紀伊の豪族である紀氏の墓とも考えられている古墳時代後期の群集墳で、総数800基超にも及ぶ国内最大級の古墳群だ。
国の特別史跡に指定されているこの遺跡は、まさしく紀伊のネクロポリスと呼ぶにふさわしい。
そんなすごい場所で歴史的にも貴重な楽譜による演奏がされ、しかもそれが結界の機能も果たすなんて。
「ねえねえユラさん、すごいですね!ぜひ行きましょうね!」
すっかり興奮してアハハウフフとオサカベさんと盛り上がっていたわたしは、元気よくユラさんにそう言った。
けれど彼女は、
「そうやねえ」
と明らかに気乗りしない様子でため息をつくのだった。
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「……で、ここがステージの置かれる岩橋千塚古墳群。資料館もあって、全体で“紀伊風土記の丘”っていう博物館施設になってるんよ。そして、ここの結界となって守ってるんが、地元では“三社”って呼ばれる3つの神社」
和歌山市の地図を前に、ユラさんが立地の説明をしてくれている。
紀ノ川の河口近くにあるこれらは、こうしてみると海からさほど遠くない位置に集中していることがわかる。
古墳群を中心に丁度Lの時を描くように鎮座する3つの神社、すなわち「日前宮」「竈山神社」「伊太祁曽神社」だ。
これらは神話時代に遡る非常に古い神社で、それぞれに高い神格をもっている。
日前宮は境内に日前神宮と國懸神宮という2つの神社があり、伊勢神宮の御神体である八咫鏡に先立って鋳造されたという鏡を祀っている。
竈山神社は神武天皇の長兄である五瀬命、伊太祁曽神社は日本書紀で全国に木を植えて廻ったと記される五十猛をそれぞれ主祭神とし、まさしくこの地が神話と直接関わることを示している。
「和歌山市とかその近くの人らは”三社参り”とかって、初詣でぜんぶ巡ったりするらしんよ。で、この神社さんだけでも強力な結界になってるんやけど、特に岩橋千塚を直接守護してるんが裏三社神人……通称“裏三社”っていう結界守なんよ」
なるほど。そういえば学生の頃、日本中世史の講義で“神人”という語を耳にした。
中世では武装勢力としても機能し、寺院の僧兵に比した文脈でも語られていた。
これを聞くと歴史好きが高じて教師になったわたしはわくわくしてしまうのだけど、ユラさんがずっと乗り気じゃなさそうなのはこの辺りの事情が関係していた。
「この裏三社の当代が私ちょっと苦手なんよ……。日前さんなんかはいわばアマテラスより古いともいえるさかい、“真の零神宮”やって。ほいでうちとこの神社にすごい張り合ってくるんよ。いや、表の三社さんとは仲良しなんよ。あくまで裏三社の結界守との話なんやけど……」
なんかすごい意外だ。ユラさんも苦手なタイプっているんだ。
この人にここまで言わせるなんて、裏三社の結界守とはいったいどんな人物なんだろう。
ちょっと無責任とは思いつつ、それでもわたしは興味の方を抑えきれずにいるのだった。
「これはこれはゼロ神宮さん。紀伊の端からようお参りやねえ」
コンサート当日、自席を探していたユラさんはさっそく噂のその人に捕まってしまった。
「紀伊の端からようお参り」って以前に裏高野の管長さんにも言われたような気がする。
ツンとした声に振り返ったわたしは、思わず息を飲んだ。
鮮やかなブルーのドレスに白いボレロをまとったその人は、ユラさんに負けず劣らずクールな美人だった。
そして手には、バイオリンと思しき楽器のケースを提げている。
これが当代の裏三社結界守、“鵜飼琉璃”さんとの出会いだった。
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