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第六十椀 〆 さよなら、それぞれの道へ。最後の「おにぎり」

小説
umiphotoさんによる写真ACからの写真
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  がらんとした部屋に佇み、ここで過ごした時に思いをはせる。
 決して長くはなかったけれど、濃密でしあわせな、愛おしい日々。
 毎日のようにおいしいご飯をつくって、彼女が待っていてくれた場所だ。
 ここには小さなテーブル、ここには小さな衣装ケース、そしてここには二人分しか入らない小さな食器棚。
 たしかにずっとそこにあったはずの家具なのに、すべて運び出された後ではもう、記憶を辿るよすがすら薄れてゆく。
 何かをやり残したような、それでいてもう何も悔いのないような不思議な感傷。
 そんな気持を抱えて、思い出だけがゼリーのように凝ったこの部屋を、間もなく後にしなくてはならない。

「さて、」
 ぼくはわざと明るい声で言ってみた。
「行きましょうか、伊緒さん」
「はい」
 傍らには、最愛の人。
 手荷物だけを持ってぽつんと佇む伊緒さんは、なんだか迷子みたいに心細げだ。

 あの日、伊緒さんから通信制大学院への進学を相談されたとき、ぼくはきっぱりと反対した。
 たぶんそういうことを考えているだろうとは、十分予測できることだった。
 でもそれは、自分の夢と家庭人としての役割を天秤にかけた上での、ギリギリの妥協点だ。
 夢には、頑張っても叶うかどうか分からないものと、頑張れば叶うものとがあると思う。
 伊緒さんが大学院に行きたいというのは、間違いなく後者のほうだ。
 もし、結婚したことが枷になってそれを諦めるというのなら、ぼくはこの世から消えてしまったほうがマシだと本気で思っている。
 誓ったはずだ。
 全力で彼女を応援すると。
 そのためにできることを、ぼくは着実に考えてきた。
 伊緒さんが志望しているのは、奈良にある南嶺学院大学。
 まずは現地に行って、その様子を見たほうがいい。
 これには続いていた大阪出張のタイミングが役に立ち、大学に勤めている伊緒さんの従姉妹の瑠依さんにも無理を言って、案内をお願いしたのだ。
 そしてぼくは、欠員が出て困っていた大阪支店への転勤を、会社に打診した。
 ぼくの側の準備が整えばという条件つきだったが、会社にとっては渡りに舟だったようでその申し出は歓迎された。
 もちろん、待遇面での交渉も忘れない。
 あとは住むところだけど、これも天啓としか思えないことがあった。
 奈良の大学に行った帰り、どうしても自分の育った家を見てみたくて、故郷の街に立ち寄った。
 その家は健在のまま借家となっており、いまは誰も住んでいなかったのだ。
 ぼくはすぐに賃貸業者に電話をして、可能な限りキープできないかを交渉したのだ。
 普通だったらしてくれるはずもないのだけど、偶然にも入居希望者が突然キャンセルしたこともあって、その要望を受け入れてくれた。
 つまり、ぼくの思う計画を整理すると、
「大阪支店に転勤して、ぼくの育った家に二人で住んで、伊緒さんは大学院に通う」
 と、いうことだ。
 あとは伊緒さんの意思次第だ。
 もちろん入学試験に合格することも必要だし、そもそも通学のほうを希望していると聞いたわけでもなかった。
 もちろん通信課程も優れたシステムには違いない。
 だけど、やはり対面で多くの指導者に学び、学友たちと研鑽を積むのが理想ではないか。なればこそ、今これからの二年間は、黄金の時間になるだろう。
 正直に言って、ぼくは子どももたくさんほしい。
 でも、修士課程は子育てと両立できるほど甘くはないはずだ。
 だからこそ、悔いのないように、伊緒さんにはめいっぱいしたいことをしてほしい。
 そのためにもぼくは彼女に弟子入りして、ひとりでできるよう料理を習い始めたのだ。
 これが、ぼくがいま考えつく限り、そしてできる限りのすべてだ。

 通信課程への進学を反対した理由を、ぼくは滔々と伊緒さんに話した。
「どうでしょうか、伊緒さん。答えは、すぐにでなくていいです」
 それまで黙って聞いていた伊緒さんの両の目から、ぽろぽろぽろっと涙が零れ落ちていった。
 まったく迂闊なことにそのときのぼくは、彼女が哀しくて泣いているわけではないことが分からなかった。
(あ!伊緒さんを泣かせてしまった!)
 そのことで頭がいっぱいになって、思い出しても恥ずかしいくらいに取り乱してしまったのだった。

「荷物がなくなると、広く見えるねえ」
 見事にがらんとした部屋を眺めて、伊緒さんがしきりに感心している。
 引っ越し屋さんが立ち去ったばかりなので、さっきまでそこにあったたくさんの物たちの気配がまだ、ほんのりと漂っている。
「晃くん、あのね。ここで、最後にしたいことがあるの」
 そう言って伊緒さんが取り出したのは、小さなおにぎりだった。
 関西行きの新幹線の中で食べようと、今朝のうちに握っておいてくれたのだ。
 それで炊飯器だけが最後の最後まで梱包されていなかったのか。
「一個だけ。このお部屋での、最後のご飯」
 そう笑って、伊緒さんはぼくにおにぎりをひとつ手渡してくれた。
 ラップを解いて、二人同時に「いただきます」と唱える。
 ぱくりと頬張るとほどよい塩気に、お米どうしのふんわりとした結び付きがなんともやさしい。
 伊緒さんの手の形そのままの、かわいらしいおにぎり。
 半ばまで食べると、具にぼくの好きなたらこが入っていた。
 引っ越し直前だったのにすごい、と驚くと、伊緒さんがドヤァ!と胸を張った。
「すごく、おいしいです」
「そう。よかった」
 何もない部屋の床に、二人でぺたんと腰をおろして食べたおにぎりの味を、ぼくは生涯忘れないだろう。
 よくかんで食べたけど、おにぎりはすぐになくなってしまった。
「では、そろそろ」
「うん、では」
 そう声を掛け合って、ゆるゆると立ち上がる。
 この部屋で、伊緒さんはおいしくて温かな、たくさんの料理をつくってくれた。
 薄皮が張るように、お互いの心の傷を少しずつふさぎ合いながら暮らした。
 玄関に手荷物を運び、靴を履く。
 そうして伊緒さんは、ゆっくりと部屋に向き直った。
「さよなら。ありがとう。わたしたちのお部屋。とっても、とっても、楽しい毎日でした」
 ぺこりとお辞儀をする彼女にならって、ぼくも一緒に頭を下げる。
「では」
 ともう一度声を掛け合い、ぼくは伊緒さんが差し出したその手を、しっかりと握った。
 ドアの向こうには、真夏の陽気な青空が広がっているはずだ。

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