飲み残しのコーヒーばかりが冷蔵庫にたまっていく。
先日、従姉妹が勤める奈良の大学に一緒に行って以来、夫はさらに忙しくなったようだ。
これまでも朝は早かったけど、さらにもう一本前の電車に乗るようになって、慌ただしく出勤していく。
朝食はお家でとらない(会社に行きたくなくなるから、と言っていた)ので、せめてコーヒーだけはドリップして飲んでもらえるようにしている。
たとえ残っても、夫がいればアイスコーヒーにして飲みきってくれるのだけど、最近は出張も日帰りで済まないことが多い。
それでついつい、冷蔵庫にたまっていってしまうのだった。
わたしが飲めばよさそうなものだけど、夫の残り香のようなコーヒーをひとりで飲み干すのがなんとなく寂しくて、なかなか手を付けられずにいる。
家庭のために懸命に働いてくれているのに罰当たりな、とは思うのだけど、やっぱり夫のいない時間が多くなるのはたまらなく寂しい。
幸い気をまぎらわすのに役立ったのは、わたしがお家で受けているライティングの仕事を増やしたことだった。
もうちょっと、お金を貯めようと思ったからだ。
夫はたぶん気づいてくれているはずだけど、わたしには一度あきらめた夢が、ひとつある。
それは、大学院に進学すること。
中途半端な自分の学問に、確かな証を残したかった。
「伊緒さんはどうして、研究者の道を選ばなかったんですか」
いつか夫が、そう聞いてくれたことがある。
でも現実には、研究者に「ならなかった」のではなくて「なれなかった」。
ただ、それだけのことだ。
歴史学の研究者になるには、大きく三つのルートがある。
ひとつは大学教員になること。
ひとつは公務員とし て、自治体の文化財課などに勤めること。
そして、博物館学芸員になること。
従姉妹の瑠依ちゃんは、大学の資料館に学芸員として入ったのだ。
いずれも狭き門で、志望者の多さに比べて求人数はとても少ない。
勢い、最低でも大学院修士課程を修了した人材が選ばれ、それなりの人脈も大いに作用してくる。
もちろん、学部卒でそれらの道に進む人もいるし、その他の研究所に就職する人もいる。
あるいは小・中・高校の教員として奉職しながら、研究活動を続ける人もいる。
でもわたしはそのどれも選ぶどころか、挑戦すらしていない。
歴史は大好きだけれど、そういう形で学問に関わって生きていくことを望んでいるのか。
わたしの心は曖昧なまま、その答えを出すことができなかったのだ。
それに学部からストレートで院に進学するにしても、学費の問題が解決できなかった。
奨学金を受けて、アルバイトを掛け持ちしながら懸命に学問に打ち込む院生の人がたくさんいたけど、わたしにはそこまでの決心はつかなかった。
卒業して出版業界の企業に就職したわたしは、それでも歴史学との関わりを絶ちたくなくて、ライターとして歴史情報サイトの構築に携わるようになった。
でも、そのおかげでわたしの興味は格段に広がり、「分かりやすく伝える」ことの大切さを身に沁みて感じることができるようになった。
多くの人とのご縁ができて、最愛の人と巡り会うこともできた。
本当に心からほっとすることができたわたしは、贅沢にもかつての夢だった大学院のことを考えるようになってしまった。
正直に言うと子どももほしいし、家計の助けをするべきなのもよく分かっている。
でも、先日瑠依ちゃんが遊びに来たときに教えてくれた、大学院の通信課程ならなんとかなるのではないか。
何度も何度も案内を読み返しながら、その思いは確信に変わっていった。
まず、研究課程でわたしのテーマを専攻できる大学院は、現状では瑠依ちゃんの勤める南嶺学院しかない。
それに通信といっても指導教官は通学部とおなじで、web経由で直接講義を受けることができる。
何日かはスクーリングに行く必要があるけど、それ以外はお家で学習することができる。
さらになんと言っても、学費の安さが大きい。
ざっくりと、通学部の半分だ。
これなら、一生懸命記事書きの仕事をすれば、家計に迷惑をかけずに捻出できそうだ。
修士課程は最低2年。
子どもを生むのにも、いい頃合いかもしれない。
欲張りだと、自分でも呆れる。
でも、唯一の心残りに、決着をつけたかった。
それはしあわせになったわたしの、最後にして人生最大のわがままだ。
でも夫はきっと応援してくれる、そう思うのには理由がある。
彼も大学のパンフレットを何度も読み返して、大学院での勉強がどんな年間スケジュールになるのかを、わたしにも聞いてくれていた。
そして先日は、大阪出張の機会を使って、わざわざわたしを瑠依ちゃんの南嶺学院大学に連れて行ってくれたのだ。
今日は久しぶりに、彼が早く帰ってこられるという。
お疲れのところ申しわけないのだけど、大学院の通信課程で勉強したいと、ちゃんとお願いしよう。
夫が帰ってきてくれた頃には、雨が降り出していた。
最初はさあーっ、とためらいがちだった雨音も、やがて激しく窓ガラスに打ち付けるようになっていった。
彼の帰宅途中でなくてよかった。
食事をとって、わたしは用意していたデザートを取りだした。
余していたコーヒーを、ゼリーにしたのだ。
ゼラチンではなくて寒天を使い、やさしい口当たりになったと思う。
クラッシュしたコーヒーゼリーは黒曜石のようにつやつやとして、ミルクをかけると白と黒の対比も鮮やかだ。
彼はこれをとても気に入り、すごく喜んでくれた。
わたしはタイミングをみて、おそるおそる通信制大学院のことを切り出した。
決して家計に迷惑をかけないこと、今以上にしっかり家事をすること等々を約束しながら、具体的な費用や修学期間も説明する。
彼は手元にパンフレットを引き寄せて、真剣にわたしの話に耳を傾けてくれた。
でも、一通りのことを聞き終えたうえで彼が発した言葉に、わたしは凍りついてしまった。
「伊緒さん。結論から言って、ぼくは通信制大学院のお話には、反対です」
一層強くなった雨脚が、ばらばらと窓を叩く音が響いた
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