意外と自分では気付かない、執筆における「独りよがり」
小説を書くとき、作中にはさまざまな仕掛けを施したり、構成でサプライズを企んだり、タイトルに凝ってみたりetc.etc.………。
実に色んな企みを織り交ぜるものですよね。
作者である自分自身は工夫に工夫を重ねて、
「よし、これはぜったいおもしろい!」
と、自信満々で発表しているつもりなのですが……。
気を付けていつつもりでも、結構独りよがりに陥ってしまうこともしばしば。
今回はわたしがやらかしてしまった、そんな3つの「カン違い」についてのお話です。
「最後まで読めばわかる!」⇐✖
「最後まで読んでくれたら、ぜったいおもしろい!」
そう思って、見せ場を最終局面に集中させたことがありました。
それまでのすべてのエピソードが、クライマックスへと至るための大掛かりな前フリというイメージです。
ところが、これは大失敗でした。
なぜなら、読み手は「退屈」だと感じればその先を読み進める義理などないからです。
書いた本人は「この後すごいおもしろいシーンがある!」と思っていても、そこに至るまでが冗長ならば読むことに苦痛を感じる場合すらあります。
読み手を飽きさせない「見せ場の緩急」への配慮が足りなかったと、反省した次第です。
「タイトルに伏線を絡めたつもり!」⇐✖
物語のタイトルとは、ものすごく大切なものであることは論を待ちません。
作家はそれぞれの作品に思いを込めて、一生懸命タイトルを考えていることでしょう。
わたしもタイトルへのこだわりが強く、納得するまで寝ても覚めても考え続けるというタイプでした。
ある作品で、物語のラストに登場する象徴的な言葉をタイトルに織り込んだことがありました。
「よし!これだ!!」
と、意気揚々と版元のチームメンバーに提示したのですが……。
反応はイマイチ。
「タイトルから想像できるものがほとんどない」
というのがその理由だったのです。
しかし自信満々で発表したわたしは「最後まで読めばわかる!」と、その意見に耳を傾けませんでした。
第一のカン違いにも通じるところですが、読み手が必ず最後まで目を通してくれるというのを前提にしていた大きな失敗だったと思います。
プロの作品や文学賞の受賞作でも、編集を通じてタイトルが変更されることは珍しくなく、視野狭窄に陥らないよう注意したい問題です。
「"梗概"はオチの直前まで!」⇐✖
文学賞に応募すると、文字数指定付きの「梗概(こうがい)」の添付を求められることがあるかと思います。
梗概とは物語のあらましを短くまとめたもののことで、いわゆる「あらすじ」と言い換えてもいいかもしれません。
ただし、文学賞での梗概は物語の結末までを簡潔にまとめる必要があります。
オチが意表をついたものであったり、登場人物にどんなことが起こるかなど、核心に迫ることはついつい伏せたくなってしまうもの。
「はたしてA太の運命やいかに…?」
「極限の選択を迫られた彼らは…?」
「そこには意外な人物が…」
等々の常套句を使いたくなってしまいますよね。
商品になった本や、WEBで公開中の作品の「あらすじ」ならそれでも十分かもしれませんが、文学賞への応募作品では典型的なNGとされています。
なぜなら正確な概要も審査の対象であり、この梗概をもとに「おもしろそうだ」と思えば本編をじっくり読んでもらえることに繋がるからです。
いわば本編の短縮版が梗概にあたるため、大切な部分を出し惜しみしては意味がなくなってしまうからです。
わたしは、これについても大きなカン違いをしていました。
文学賞での梗概は、決して本編への期待感を煽るような性質のものではないのでした。
だからこそ、第三者の意見には真摯であるべき
独りよがり、というのは自分自身でそうとは気付かないからこそ陥るものだと思います。
だからこそ、第三者の意見というのはとても貴重で尊いもの。
もちろん、十人いれば十人とも違う考え方があり、そのすべてが正しいわけでもありません。
重要なのは、自身の意見とは異なる角度からの視点に目を向けることです。
自分のA案と第三者のB案、どちらを取るかというのではなく、もしかするとそこからさらにC案という妙案が生まれるかもしれません。
わたしが上記3つのカン違いによる失敗を通じて感じたことは、意固地にならずにアドバイスをくれた人の考え方に、真摯に向き合うことの大切さです。
一人の力を過信せず、身近な人に思い切って意見を求めてみることも大事だと思います!
三條 すずしろ・記
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