「かてェな」
その煎餅のようなもののあまりの固さに顔をしかめたのは、むしろ川原石でも平気で嚙み砕きそうな面構えの偉丈夫だ。
太い首の筋が浮き彫りになり、戯言ではなく文字通り歯が立たない食い物であることがうかがえる。
「噛めませぬか」
その様子を注視していた向かいの男がぎょろりと大きな眼を巡らせ、言い放つ。
「丹田に気を下ろして噛まれませい。兜を断ち割る気構えにて」
兜を割るつもりで噛まねばならぬ食い物などあってたまるものか。
二人のやり取りに手代の柏木総蔵は吹き出しそうになるが、じっとこらえるしかない。
なにぶん主とその重臣の御前なのだ。
「ぬ……むん」
ぼぐっ、とおよそ食い物らしからぬ音を立てて煎餅のようなものが割れた。
偉丈夫はそのままぼぐぼぐと力強く咀嚼する。
「いかがか」
「かてェ」
この妙な食い物は麦粉を練って焼いた「パン」というものだ。西洋ではこれを本来はふんわりと焼き上げて日常の食としているそうだが、堅く焼き締める製法で兵糧に供するよう試みているのが、総蔵の主であるぎょろ目の男だ。
名を「江川英龍(ひでたつ)」という。
天領である伊豆韮山の代官で、近郷では当主代々の通り名である「太郎左衛門」と呼ばれることの方が多い。
ちなみに英龍は三十六代目の太郎左衛門で、江川家は鎌倉時代から続く名族だった。
いましも兵糧パンを食わされている偉丈夫は、江戸三大道場の一角に数えられる当代随一の剣士「斎藤弥九郎」。
“力の斎藤”と称される神道無念流の達人としてあまりにも名高いが、三歳年下の英龍とは実に親しい兄弟弟子の間柄でもある。
かくいう英龍も神道無念流免許皆伝の腕前で、弥九郎が江戸の九段坂下俎橋近くに道場「練兵館」を建てる際、多大な資金援助を行っている。
以後、弥九郎は江戸詰書役として英龍に仕えるようになった。大塩平八郎の乱の折には大坂へ情勢視察に向かい、甲斐で大規模な百姓一揆が起きると刀剣売りに化けて調査を実施した。
この時には驚くことに英龍も同道しており、一国の長が自ら他国の動乱時に潜入調査を行うなど無茶苦茶といえば無茶苦茶である。
しかし甲斐周辺には伊豆韮山を含めて天領が散在するため、騒動がこれらの土地へと波及することを警戒しての行動だったといえよう。
話をパンに戻そう。
総蔵が主・英龍からの命でパンの製法を学んだのは天保十三(1843)年のことで、西洋砲術家として知られる高島秋帆の門弟・作太郎という人物を頼ってのことだった。
作太郎は長崎出島のオランダ館でコックを務めた経験があり、パン製造にも精通した第一人者といえる。また、高島秋帆は英龍にとって西洋砲術の師でもあった。
総蔵はすぐさまオランダ宿として名高い江戸・日本橋駿河町の長崎屋で作太郎に会い、パン製法の口伝と実演を受けてその首尾を詳しく英龍に書き送った。
そもそも英龍がパンに執心したのは、当時の緊迫した外国勢力の圧力が起因している。
異国船打払令が発布されたのは文政八(1825)年のことだが、以来列島近海に現れる外国船舶に対する幕府の基本方針は「駆逐」であり、英龍も沿岸防衛を重視するいわゆる海防論者の先鋒として知られていた。
こうした一連の国防意識は幕府をも動かし、天保十四(1844)年には老中・阿部正弘の命で江戸品川沖に洋式海上砲台を築造。これを手掛けたのが英龍で、今は「お台場」の地名で知られている。
そして防備の一環としての携行糧食を探る過程で、堅焼きパンに着目したのもまた英龍だったのだ。
パンとはいうものの、実態としては今日でいうビスケットに近いものといえよう。
すべて自ら学んで己の手で試みねば気の済まぬ性分の英龍であるから、パンについても製法を習得した総蔵からそれはもう熱心に伝授を受け、いまや職人の境地といっても過言ではない。
かくして韮山の江川屋敷の厨で、幾度目かのパン作り実験が行われることとなった。これに英龍腹心の弥九郎と総蔵が立ち会うこととなり、大の男が麦粉やら道具類やらを前に雁首を揃えているのだ。
先ほどから弥九郎が食わされているのは、以前に試みた兵糧パンの残りである。
「干し飯じゃあ駄目なのかい」
弥九郎が口をもごもごさせながら英龍に尋ねる。無論公の場ではこのような言葉遣いをするはずもないが、身内だけの気の置けない時間にはつい兄弟弟子の間柄に戻ってしまう。
「左様。干し飯も至便なれど固すぎまする。湯茶があれどそれだけを食うのは難儀にござる」
文字どおり米飯を乾燥させた干し飯は「糒」とも書き、古代より保存食の代表格として重宝されてきた。大宝令の時代から「倉庫令」にはその備蓄期間が二十年と記され、群を抜いた長期保存を可能とする糧食であることがわかる。
しかし英龍はそれに満足していなかった。
干し飯は一度炊飯したものを乾燥させてあるためそのままでも食えぬことはないが、やはり湯か水で戻すかあるいは粥や雑炊などにすることが望ましい。だが例えば外国船の脅威に曝される有事の時、調理の手間をかけずにそのまま食せる携帯口糧としてはやはり不足しているのではないか。
英龍がパンに執心したのはそうした思いからであった。
「兄弟子殿、総蔵。では仕る」
そう言って襷がけの英龍は半切り桶にかぶさっていた布巾を取った。
中にはぷっくりと膨れた餅のようなものが鎮座している。
「酒の匂いがすらあ」
弥九郎が鼻をひくつかせ、桶の中身をのぞき込む。
「左様。うどん粉一升に甘酒を加え、やわらかに捏ねて一夜置いたものにござる。これを“古めん”と申す」
これは享保三(1719)年に出された『製菓集』という書物に載っているパン製法で、いわゆる酒種酵母を用いたものだ。酵母として糀や甘酒を利用する方法は酒饅頭の伝統もあり、古くから日本でも知られていた。
「うどん粉一升に砂糖六百四十匁、これに古めんと程よき分の水を入れてよく捏ね申す」
「ふむ」
「さりとて随意の大きさに分けて丸め、温きに置いておくとやがて膨れてござる。これ、こちらが予め仕込んだものにて」
「段取りがよいなあ」
英龍が取り出してきたパン種はなるほど、発酵によってさらに膨れていることが見てとれた。
「薪を焚いた大窯にこれを並べて火を通せばパンが焼き上がり申す。されどそれのみでは干し飯に勝るものではござらぬ」
つまり今日われわれがよく知るパンと同じで、やわらかく日持ちがしないのだ。
英龍はこれをより焼き締めることで、長期保存ができる兵糧パンの製造を目指していた。
「しかるに先ほど兄弟子の召されたものが堅焼きのパンでござる。総蔵、頼めるか」
「はっ」
英龍から求められ、総蔵が解説を引き継いだ。なにしろパンの製法を直接学び取ってきたのであるから、やはり技も知見も一日の長があるのは総蔵だ。
「作太郎殿より学んだ法はいくつかござりまするが、次の三法がよろしきと存じまする」
総蔵が英龍と弥九郎に示した製法ごとの材料はこうだ。
一、麦粉 百六十匁
砂糖 四十匁
玉子 五ツ
二、麦粉 百六十匁
醴 五勺
砂糖 二十匁
三、麦粉 百六十匁
醴 五勺
水 適量
醴(こざけ)とは甘酒の類で、酒種酵母として用いたものを指す。「饅頭の元」とも記されている。また明治以降の規定であるが一匁(いちもんめ)は3.75g、一勺はおよそ18mlだ。
「砂糖と玉子を加えるのは長崎にて編み出された工夫との由。なるほど、味わいは宜しいものの十日ほども食せば飽いてしもうてござりますれば。塩のみで味付けしたものが倦まずに食せまする。これがそのパン種でござります」
総蔵はそう言い、あらかじめ塩と水だけで捏ねた小麦粉の塊をほどよくちぎり、手のひらで丸めて成型しだした。
「差し渡しは二寸ばかり、厚さは三分ほど。手に載るほどの大きさに丸く平たく致し、あれにて油を引いて焼きまする」
その指し示す先には、大きな鉄の平鍋が竈門に鎮座している。
「おっ、甘藷焼く鍋だ」
弥九郎がなにやら嬉しそうに声をあげた。甘藷、つまりサツマイモは当時においてもたいへん好まれた庶民の甘味だ。
「本来なればパン専用の大窯を築くべきところ、殿の仰せでこの鍋を使いまする。なれば改めて普請も要り申しませぬゆえ。あるいは囲炉裏のぬく灰に埋めて焼く法もあり、これは民百姓の自家にても作れまする」
この兵糧パンには発酵の過程がなく、文字通り麦粉の堅焼きといえよう。
しかしこの材料と製法がもっとも手軽で、総蔵は灰に埋めて加熱する法の実用性を書状で英龍にも意見している。
いつの間にやら総蔵を手伝って麦粉をちぎり、あるいは丸めて伸ばしながら、英龍と弥九郎も鉄の平鍋いっぱいにパン種を並べていく。加熱された鍋肌に引いた油が薄く煙を立て、ほどなく麦粉が焼ける芳ばしい香りが漂ってきた。
焦げつかせぬよう時間をかけてしっかりと焼き、水分を飛ばせば江川式兵糧パンのできあがりだ。
「なるほどなあ」
しきりに感心する弥九郎はさきほど食べ残したパンを口に含み、しっかりと噛みしめた。
「だんだん甘うなってくるな」
「いかにも」
弥九郎の感想に、英龍が初めて少し目を細めた。
「一人一枚半から二枚ほどを食し、湯水を飲んで腹を膨らますという仕儀でござるな」
そういって英龍自身も、残っていたパンに歯を立てる。
ぼぐっ、とやはり妙な音が響く。
「殿よ、外国との戦は起こるかい」
パンを噛みながら弥九郎が尋ねる。
「わかりませぬ」
にこりともせず、英龍が簡潔に答える。
「なれど備えだけはせねばなりませぬ。戦を起こさせぬためにも。パンを兵糧に持つことでなかなか侮れぬものと思うてくれればよし。さにあらずとも、雨、大風、地鳴り、火事、疫病、一揆、気掛かりは決して尽きませぬ。左様な折りにそのまま食せる口糧があれば、何より心丈夫でござりましょう」
英龍はしみじみと兵糧パンを眺め、むしろ自身に言い含めるかのように訥々と語った。
「さて、実はもう一品用意してござってな。総蔵にも内証で拵えたのじゃ」
そう言うと英龍はもう一つ籠を取り出し、それを覆っていた布巾を捲った。
「おおっ!?」
「おお…!!」
それを見て驚く弥九郎と総蔵の様子に、英龍は今度こそはっきりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
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明治という時代を迎えて目まぐるしく様変わりしていく世を、総蔵は幻燈でも見せられているかのような心持ちで生きた。
振り落とされないよう目の前の手がかりに必死でしがみついてきただけのようにも思えるが、維新後には韮山県大参事となり今は足柄県の県令を務めている。名も総蔵ではなく「忠俊」と記すようになった。
剣豪として不動の名声を得た斎藤弥九郎は、明治四(1871)年に七十三歳で亡くなった。剣術だけではなく洋式兵の調練にも携わり、維新後には明治政府に出仕した。
総蔵の主、江川英龍は安政二(1855)年に五十四歳で鬼籍に入った。
もし英龍がもっと長命であったら日本という国は、明治という時代はどうなったであろうかと、総蔵はつい思いを巡らせてしまう。
英龍は海上防衛や兵糧パンのみならず、農兵組織や反射炉の建設、林産資源としての杉の植樹や蒸気機関車の操縦等々、枚挙に暇がないほどの先進的な事業を手掛けていた。
そのくせ代官としても領民に慕われ、いつしか「世直し江川大明神」と呼ばれるようになったものだ。
命を縮めるほどに、忙しすぎる人だった。
幕末には日本全土で、おびただしい数の龍が生まれたのだと総蔵は思う。
あるいは天を目指し、あるいは地に堕ち、孵っては散っていった大小賢愚とりどりの龍の群れ。
そのうち本当に天上に君臨したのはごく僅かな龍の生き残りたちだけだが、かつての主は間違いなくその一頭だった。
新しいものが好きで凝り性で、誰より早く天へと駆け登ってしまった慌ただしい龍。
総蔵を追憶から引き戻したのは、香ばしく懐かしい、胸をかきむしるような香りだ。
ゆっくりと立ち上がり、自邸に設えた窯から焼きたてのパンを注意深く引き出した。
あの日、英龍が最後に総蔵と弥九郎に振る舞ったレシピで焼いてみたものだ。
「スセースブロート」
プロシア式のそのパンの名を、英龍はそう呼んだ。
ほんのり黄色くふっくりとやわらかで、粗挽きこしょうの風味がきいたそれは実に旨いものだった。
英龍が珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべて差し出したそのパンを、在りし日の総蔵と弥九郎は夢中で頬張ったものだ。
作りかけていたパン種も捏ねて餅のように伸ばしたり、童のように麦粉にまみれたりしながら、いくつもパンを焼いては飽くことなく語り明かした。
老いた総蔵は、自らの手で焼いたスセースブロートをゆっくりと割いた。
芳しさと甘さと辛みを含んだ湯気が、一条の香のように立ち上る。
それは目に見えなくなってもどこまでも高く高く昇ってゆき、総蔵を覆う空に横たわる龍に見えなくもない雲へと捧げられた。
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【参考文献】
「江川坦庵の「兵糧パン」とその復元」『日本大学国際関係学部生活科学研究所報告 38』
淺川 道夫,橋本 敬之 2016 日本大学国際関係学部
「幕末期萩藩におけるパン製造についてー「幕末パン」復元の試みー」『萩市郷土博物館研究報告 第8号』 樋口 尚樹 1997 萩市郷土博物館
【参考サイト】
「「パン祖のパン」181年前の幻のレシピ発見 兵糧パンと違いふっくら メモ基に地元業者が再現 静岡県伊豆の国市で」 東京新聞 TOKYO Web 2022年7月31日 07時52分
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