大阪出張が金曜にまたがったある週末、土日を利用して関西で伊緒さんと合流することにした。
古都・奈良にある、瑠依さんの勤める大学に行ってみようと思ったのだ。
瑠依さんは伊緒さんの従姉妹で、食文化史を専攻する研究者だ。
伊緒さんにとってはお姉さんのような人で、二人はすごく仲がいい。
激しく人見知りをすることから「借りてきたネコ」と呼ばれているけど、先日一緒にお好み焼きを食べてから、少しぼくにも心を開いてくれたと信じている。
「一度、大学にあそびに来て」
と言ってくれていたのだ。
「すごい!おダシの匂いがする!」
新大阪駅に降り立った伊緒さんを迎えに行くと、開口一番そう言って笑った。
たぶん、気のせいではないだろう。
そのまま列車で奈良の中心部まで出て、駅前でレンタカーを借りることにしていた。
大学までは路線バスしかないので、その方が動きやすいだろう。
道すがらの車窓を、伊緒さんは熱心に眺めていた。本当に異郷を感じる風景のため、見ているだけで楽しいのだという。
列車で奈良の都心に入り、突如として開けた空間の向こうに平城京の大極殿が見えたとき、伊緒さんはとっさに両手で口を覆った。
手のひらの奥から、
(ニャアァァァァァァァァァァァ)
と感動の叫びが聞こえてくる。
よかったよかった。ここで降ろしてあげたら、2~3日帰ってこないかもしれない。
今度は朱雀門から歩いてみましょうね。
駅で車に乗り換えて、いざ瑠依さんの大学を目指す。
大学の常で郊外にあるのだけど、思ったより道が混んでなくてよかった。
伊緒さんは相変わらず、車中から見える鹿さんに手を振ったり、古代寺院に手を合わせたりしてキャッキャウフフと楽しそうだ。
今度は必ず、ゆっくり観光しましょうね。
結構走ったな、と思った頃に目指す建物の看板が見えてきた。
「南嶺学院大学」
ここだ。
正門の守衛さんに来訪の意を告げると、瑠依さんが話を通してくれていたみたいですぐに案内してもらえた。
大学の広い敷地の端っこのほう、地図には「6号館」と表記されているのが目当ての建物だ。
最寄りの駐車場に車を停めて歩き出したけど、6号館までの道のりはほとんど森のようだ。
「なんだか鬱蒼としてますねえ」
「ねえ。立派な森だわ。コナラとかトチとか、どんぐりの生る樹が多いのね」
そうなんだ。じゃあ、実りの頃はさぞや賑やかだろう。
森の道を抜けたところに「ぽこっ」といった感じで、白くて四角い、古びた建物が建っていた。
入り口の看板には、
「南嶺学院大学食文化史研究所」
の文字が。
そしてその傍らには、白衣に縁なしめがねの、伊緒さんにそっくりな女性が佇んでいた。
「瑠依ちゃん!」
伊緒さんがたったったっ、と、うれしそうに駆け寄っていく。
「やっ」
びしっ、と片手を挙げて出迎えた瑠依さんは、ぼくのほうにもぎこちなく笑いかけてくれる。
いつものように無駄のない淡々とした様子ながら、瑠依さんは丁寧に各所を案内してくれた。
敷地の広さはさっき体感したばかりだけど、改めて歩くとちょっとしたテーマパークみたいだ。
キャンパス内には思いのほか幅広い年齢層の人がいて、社会人学生や大人向けの講義が充実していることを感じさせる。
瑠依さんの仕事場である「食文化史研究所」は、かつての学生寮を改装した資料館になっていた。
食文化に関わる民俗資料を中心とした展示で、歴史的な食器や調理器具などが珍しい。
なかでも面白かったのは何種類もの「どんぐり」の標本で、これは大学構内や近隣の森で瑠依さんが採集してしたものだそうだ。
縄文時代に植物性食品として重宝されたどんぐりは、ある意味で日本文化の基礎ともいえるだろう。
そのままでも口にできるもの、アク抜きに工夫が必要なもの……いろんなものがあって、それを語る瑠依さんはやさしく穏やかなまなざしだ。
ねえ。
想像してみて。
昔の人が、どんな思いでこれを食べたか。
そんな彼女の言葉が、強く印象に残った。
伊緒さんは何度も頷きながら、夢見るような表情で聞いている。
あっという間にお昼になり、「ご飯にしましょう」と言った瑠依さんは、なぜか研究所の裏手へとずんずん行ってしまう。
裏口のさび付いたドアを押し開けると、そこには菜園が広がっていた。
傍らには「実験栽培場(予定地)」の立て札。
瑠依さんは以前、黙って野菜を作って食べていたところ、大学から注意を受けたそうだ。
そこで古代料理復元実験用の食材を自給するため、というもっともらしい理由をつけて菜園の許可申請を行ったらあっさり通ったとのことだ。
「はんかくさい」
お国言葉で瑠依さんが毒づく。
なかなかたくましい人だ。
さすがは伊緒さんの一族。
「はい。大和トマトに大和ゴーヤー、大和エッグプラント」
瑠依さんはほどよく実った野菜を次々に収穫しては、ぼくたちに手渡していく。
「大和トマト」などがちょっとした冗談だと気付いたとき、笑いが止まらなくなってしまった。
研究所には家庭科室みたいな広い厨房があって、普段はここで復元料理などの研究を行うという。
瑠依さんはそこで、カレーを用意してくれていた。
そこにさっき採ったばかりの野菜を直火で焼いて、たっぷりとのっける。
これ以上ないくらい贅沢な、夏野菜カレーだ。
さらっとしているのにピリッと辛い、キレのあるルーと、とれたて野菜の甘さとの相性は抜群だ。
自家栽培の野菜って、こんなに味が濃いものなんだ。
「瑠依ちゃん、おいしい!」
「瑠依さん、おいしい!」
同時に叫んだぼくらに瑠依さんは、
「なんもだ」
と無表情に言って、黙ってコップにお水を注ぎ足してくれた。
照れているのだ。
お暇しなくてはいけない時間は、あっという間にやってきた。
駐車場まで見送りに来てくれた瑠依さんは、野菜がどっさり入った袋をぼくに持たせてくれた。
「伊緒、したっけ」
「したっけ!瑠依ちゃん」
二人がお国言葉で短い挨拶を交わすのを見届けて、ゆっくりと車を出す。
バックミラーの中で小さくなっていく白衣姿は、ぼくたちが見えなくなるまで手を振ってくれていた。
「ありがとう、晃くん。すごく楽しかった!」
伊緒さんが頬を上気させている。
短い滞在時間だったけど、きっと彼女には得るところが大きかったのだろう。
瑠依さんとの会話は専門的過ぎてさっぱり分からなかったけど、生き生きとした伊緒さんのようすは、見ていて本当に気持ちがよかった。
ぼくは、彼女のためにぼくができることを、真剣に考えなくてはいけないようだ。
「伊緒さん。ほんの少し寄り道したいんですが、かまいませんか」
車を返す前にどうしても見ておきたい場所があって、彼女に断って駅とは逆の方向へ向かう。
思えばこのルートで行くのは初めてだけど、地図で見る限りはさほどの距離ではないはずだ。
車を走らせていくとやがて少しずつ、記憶の中にあった街の姿が鮮明になってきた。
山の間を切り開いたような古い住宅地。
少しねじれたような不思議な形の給水塔。
そして長い坂道を登りきったところにある、小さなお家。
その前に車を停め、降り立った。
「ここは……?」
庭の木をまぶしそうに見上げて、伊緒さんが不思議そうにたずねる。
「ぼくが、育った家です」
まあ、と口に手を当てて、彼女はまじまじとそのお家を見つめた。
ぼくがかつて暮らした実家とも呼べる場所は、瑠依さんの大学とさほど離れていなかったのだ。
県と府の境界にあるこの街から、ぼくの両親は毎日のように大阪へと働きに出かけていた。
お家には空き家であることを示す、賃貸業者の看板がかかっている。
外の門扉に鍵はかかっていなかったので、そっと押し開けて庭へと入ってみた。
両親が亡くなって、ぼくもこの家を引き払ってから次の住人がいたのだろう。
いくつか新たな木が植えられて、少し庭の様子が変わっている。
「あっ、なつかしい。夏みかんの樹がまだ……」
そこまで言いかけた時、突如としてさまざまな思いが胸にこみ上げ、ぼくはその場にうずくまってしまった。
嗚咽をもらすぼくのかたわらに伊緒さんもしゃがみ込み、泣きやむまでやさしく背中を撫でていてくれた。
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