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【紀伊 零神宮のあやかし文化財レポート】第9章 中辺路の河童、ゴウラの伝説。天地の松と永遠の狛犬

小説
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徒手空拳

「名にし負う、近露の五来法師ゴウライボーシさまとお見受けします」

恭しく声をかけたユラさんに、河童が猫を思わせる縦長の瞳孔をギロッと向けた。

やつかれは紀伊・瀬乃神宮の衛士えじ、橘由良と申す者。ゴウラさまにお伺いしたきことがござりま…」
〈――下宮の狛犬は腐ったのか〉

ゴウラと呼ばれた河童が、ふいに口を開いた。
はっきりとした発音の、重々しい人語。

そうだ、ゴウラは松の成長と狛犬の劣化という時限付きで封印されていたのだ。
一時的にそれを解かれたことで、約束した狛犬風化の時が訪れたのか聞いているのだ。
存外義理堅いことに驚いてしまう。

「は――。狛犬はいまだ健在にて。紀伊の鎮壇を再地鎮する中途にて、ゴウラさまの封印を一時解きましてございます」
〈で、あろうな。石の狛犬がさように腐るはずもなし。松は枯れたようである故、もはや永えに天にも地にも届かぬな〉

ゴウラは目を細め、水掻きのついた手を顎へとやった。
岩の上に泰然と座し、理路整然と語る様はまるで哲学者かのようだ。

「ゴウラ様、重ねて申し上げまする。お尋ねしたき義がございます」

ふむ、とゴウラはユラさんを見下ろした。
人外のその眼は、深い水底の色を湛えている。

〈よかろう。我が願いに応じるならば、知る限りを答えよう〉

相撲を一番、所望する。

そう言ってゴウラは、枯れ枝のような指で玉置さんを指し示した。

〈相当な修練を積んでおるな。手合わせをしよう〉

ぴょんっと岩から飛び下りて、玉置さんと正面から対峙する。何やらわくわくと嬉しそうな様子が、こちらまで伝わってくる。
そうだ。各地の伝承では、河童はいずれも無類の相撲好きなのだった。
この近露のゴウラも例外ではなく、数百年ぶりかと思われる封印が解けたこの瞬間、立ち合うことを求めるほどの渇きなのだろう。

「…わかりました。ゼロ神宮さん、ここは任せといたってください。田辺の合気道、ゴウラさんにきくか試せるとは思ってもみいへんだ」

玉置さんはそう言うと、半身になって両の手刀を下段に凝らすような独特の構えをとった。
ゴウラがにやりと笑ったように見え、相撲の仕切りそのままに腰を落とした。

奇しくも円形に張った注連縄の結界は土俵のようであり、彼らが戦うための舞台となっていた。

ゴウラがとん、と拳を下ろすと同時に地を蹴り、猛烈な勢いで玉置さん目掛けて突進した。

ドパッ、とものすごい音を立ててそれを受ける玉置さんは、重心を斜め前に傾けて飛ばされないようにしている。

が、ゴウラの剛力はずずずずっ、と玉置さんを土俵際へと押し込んでいく。

その瞬間、玉置さんはゴウラの手首をとりつつ体を横にさばき、身体を転回させながらその腕を頭上へと振り上げた。
踏みとどまろうとするゴウラの腕が逆に極まり、そのまま剣を振り下ろす動作で投げ飛ばした。

たまらず回転したゴウラは、土俵ぎりぎりのところに着地したがその腕は長く伸びてしまっており、あろうことかもう一方の腕は短くなっている。
河童は両腕が体内で繋がっているという伝承通りだ。

〈見事……!“四方投げ”だな?〉

ゴウラは嬉しそうに呟くと、にゅるん、と腕を元の長さに戻してもう一度仕切りの構えをとった。

ゴウラが見せた今度の立ち合いは、さらに低く強烈だった。
咄嗟に正面から受けるのを避けて体捌きでかわそうとした玉置さんだったが、それより早くゴウラの手がベルトを掴んだ。

〈むう!〉

含み気合とともに剛力で引き付け、強引にがっぷり四つの体勢へと持ち込んだゴウラは、そのまま間髪入れず櫓投げに投げ落とした。

受身をとる間もない強力な投げに、さしもの玉置さんも為す術がなかった。

〈――強かったぞ。人間〉

ゴウラは肩で息をしながら、満足そうな笑みを浮かべた。

〈さて、そこの女の人間。そなたはさすがに立ち合うわけではなかろう〉
「いいえ、ゴウラさま。次はやつかれの番にて」

そう言うとユラさんは胸の前で印を組み、六代目由良にその心技で助力を乞う言葉を唱えた。

が、何やら様子がいつもと違う。
どうしたのだろうと心配げに見つめていたわたしと目があったユラさんは、きまり悪げに困ったような顔をした。

「断られた……」
「え?六代さまに、ですか?」
「うん……。“嫌だ”って………」

ええ……。
そういうことあるんだ。

たしかに六代目は体術も強いようだったけど、やはり剣士が本分なのかゴウラとの相撲勝負には適さないのかもしれない。

仕方しゃあない……。なら!」

ユラさんは気を取り直してもう一度印を組み、初めて聞く“歴代の由良”の名を呼んだ。

「当代“由良”の名において請い願う。白打の御技、我に貸し与えたもう!十代目様!」

言い終えた瞬間ユラさんの身体に宿ったのは、得も言われぬ陽の気を発散する人物だった。

〈――おお…?おお、おお、おお!〉

嬉しそうにくるくると目を動かし、“十代目”と呼ばれたその人は元気いっぱいに素っ頓狂な声を上げた。

〈これはこれはまたまた!近露のゴウラさまじゃあありませんか!うっわあ、本物だよお!嬉しいなあ!嬉しいなあ!〉

突然のハイテンションにわたしは呆気にとられてしまった。

「相変わらず十代目は」
「さわがしいわねえ」

マロくんとコロちゃんがわたしの肩で苦笑している。

「でも素手なら」
「六代目より強いわよ」

その言葉にびっくりして再びユラさんの方を見ると、ゴウラの気配が明らかにさっきまでとは異なっている。
細かった瞳孔は大きく丸く開き、茶褐色の部分が多かった肌は見る間に鮮やかな緑色へと変貌してゆく。

〈人間。そなたもしや…“あやかし狩り”の由良之丞か〉
〈いかにも僕は由良之丞。十代目の由良さ!ゴウラさまがご存知だとは光栄だなあ。でもまあ、細かいことは抜きにして、さっそく立ち合おうじゃありませんか!〉

十代目は嬉しそうにぐるぐる腕を回して、何やら準備運動をしている。
すっかり毒氣を抜かれたような思いで見守るわたしだったけど、ゴウラはすうっと目を細めて笑っているかのような表情となった。

〈よいのか由良之丞。その女の人間の身体で、十全な技に堪えられるか。知らぬぞ、どうなっても〉
〈もちろん当代も覚悟の上ですよ。それにゴウラさまと手合わせできるなんて、最初で最後の僥倖でしょう。無手にて鎧武者を屠る無陣流白打はくだの技!とくとご覧じよ!〉

ゴウラはそれを聞くと、わたしにもそれとはっきりわかるような嬉しそうな顔をした。

〈なれば、ただの相撲すもうではつまらぬ。大昔を思い出して、相撲スマイにて勝負だ〉
〈望むところさ!〉

そう言うと両者は円形の結界中央付近に進み出て、少し離れて正面から向き合ったのだった。

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