白い狗と黒い狗
と、濃霧を割って飛び込んできたのは、白と黒の2匹の犬だった。
一瞬悲鳴をあげてしまったけれど、2匹ともぶんぶんと尻尾を振ってわたしの周りを嬉しそうに回り、くんくんとかわいらしく鳴いている。
「わあ……」
思わず差しのべたわたしの手に2匹ともがすり寄り、とても愛くるしい。
首輪はしていないけれど、こんなに人懐っこいので誰かの飼い犬に違いない。
すると2匹が、わたしのポンチョの裾をくわえて引っ張った。
まるで”こっちだよ”と導くような様子で、思わず立ち上がって引かれるままに一歩を踏み出した。
その時、一瞬薄くなった霧の向こう側に人影が見えた。
笠をかぶり、渋みがかった法衣をまとって長い錫杖を手にしている。
山上ですれ違った修行僧だろうか。
わんこたちはわたしをそちらへと誘導しているようで、僧はそれを確かめると踵を返し、錫杖をしゃりんしゃりんと鳴らしながら先導していく。
わたしは、無我夢中で僧とわんこたちの後を追った。
僧は信じられないほど足が早く、頻繁に見失いそうになったけれどその度に歩を止めて待ってくれていた。
すぐ目の前では2匹のわんこが振り返り振り返り、わたしが付いてきているのを確かめているかのようだ。
急な坂を一息に登りきったところで、ふいに平坦なところに出てきた。
息も絶え絶えになってふと顔を上げると、目の前にお寺の山門が浮かび上がり、霧の切れ間に「龍仙寺」の文字が読みとれた。
いつのまにか僧とわんこたちの姿は見えなくなっており、遠くのほうでしゃりんと錫杖の音が立ち、次いで「わん」と2匹が重ねて鳴く声が聞こえた。
すると門の内から、
「先生!」
「あかりん!」
と、口々に叫びながら人が走り出てきた。
ああ、ユラさん。コロちゃんにマロくん。
よかった。お坊さんとわんちゃんたちがここまで連れてきてくれたのだわ。
そう思った途端にすっかり安心してしまい、わたしは気が遠くなっていった。
「――それで、白と黒の2匹のわんちゃんと、修行僧みたいな人がここまで導いてくれたんです」
龍仙寺で手当てを受けてすっかり身体が温まったわたしは、事の次第をみんなに話していた。
ユラさんたちからはぐれてしまったあの時、みんなにもわたしが突然消えてしまったように見えたのだという。
結界の弱体化は龍仙寺までのルートを撹乱し、わたしは運悪くそのはざまに囚われてしまったとのことだ。
「護法童子たる僕らの目の前であかりんを攫うとは」
「ええ、舐めた真似してくれるわね」
マロくんとコロちゃんが、静かにものすごく怒っている。
「そやけどとにかく、無事でよかったわ…」
ユラさんが憔悴した様子で何度もそう繰り返す。
「しかし2匹の犬と修行僧て、まるでお大師さんですな」
濃い眉にぎょろりとした目の、屈強そうなお坊さんがちょっと嬉しそうな声を出す。
こちらは龍仙寺の新住職・龍海さんで、凍えて辿り着いたわたしを懸命に手当てしてくれた人だ。
bar暦で岩代先生は“頼んない”と言っていたけれど、堂々たる佇まいと風格のあるお坊さんだ。
龍海さんのいう“お大師さん”とは、このあたりで空海を指す愛称のようなものらしい。
空海は高野山を開く際、地場の”狩場明神”とその使いである白黒2匹の犬が山へと導いた伝説があるのだという。
たしかに、さっきの出来事はまるでその時の空海と神使のわんこたちが助けてくれたみたいに感じる。
「でもまさか、裏高野の結界がこないに弱ってるとは予想外でした」
ユラさんが深刻な顔でつぶやく。
「まったく僕の力不足です……。先代の頃から徐々に結界が侵食されてたんやけど、ここにきて急激に綻んでしもたんです。“何か”が意図的に結界を破りに来てるとしか思われへん…。せやけど、護法さんと瀬乃神宮さんが来てくれはったら千人力や。すんませんけど、どうかあんじょうお頼みします」
いかつい風貌の龍海さんが深々と頭を下げ、ユラさん・コロちゃん・マロくんの3人は揃って「受けたもう!」と応えた。
龍海さんのお話によると、高野山ほどの霊場でも大昔からあやかしに狙われてきた歴史があるのだそうだ。
そのうち、もっともよく知られているのは「大蛇」のあやかしだ。
空海の入山を妨げた大蛇、そして御廟までの参道に潜み、参詣者を捕食したという毒大蛇……。
実は信仰上、空海は寂滅していないとされている。
奥の院の最深部にある御廟で生身のまま禅定を続けており、そのため今も僧たちは空海のための食事を運び続けているのだという。
伝説によると現在も奥の院に祀られる「数取地蔵」は、参詣する人の行き帰りの数をずっと確認していた。
しかしどう数えても、行きより帰ってくる人の方が少ない。
それは参道の途中、二の谷という場所に潜む毒大蛇の仕業で、数取地蔵は急ぎその旨を御廟で禅定中の空海に知らせた。
自らそれを救済すべく復活した空海は、竹箒を用いて大蛇を滝に封印。
しかし箒には怨念が宿り、空海は「いつかまた竹箒を使う時代がくれば封を解こう」と大蛇に約すことで呪縛を施した。
「そやから、今でも高野山とその周りでは、竹の箒は使わんようにしてるんですわ」
龍海さんがそう締めくくり、わたしは初めて生で聞く空海の伝説にすっかり圧倒されてしまった。
しかし、アンタッチャブルだとばかり思っていた高野山が、そんなにあやかしの脅威に晒されているなんて思いもよらなかった。
わたしがさらに質問しようとして「あの…」と口を開きかけたその時。
ズンッ、と地鳴りのような音が聞こえ、お寺全体が小刻みに揺れた。
次いでゴゴゴゴッ、と土砂でも崩れたかのような音が響き、再びズンッと地が震えた。
「いかん!もう来やったかっ!!」
龍海さんが叫ぶと同時に、ユラさんがバックパックを開いて緋袴の装束を翻した。
コロちゃんとマロくんは瞬時にその姿を変じ、兜巾に結袈裟、錫杖を手にした山伏の装束となった。
法衣の上から同じく結袈裟などをかけて修験者の姿となった龍海さんは、わたしに輪袈裟をかけて数珠を持たせた。
「雑賀先生、一人でここには置いとけれへん!少々危険でも、護法さんらに守ってもらったしか安心や。修法が始まったら、一心に“鎮まれ”って念じとってください!」
「あかりん、今度はぜったいに!」
「見失わないから!」
「先生は護法さんの後ろを離れんといてな!私と龍海さんがメインで止める!」
瞬時に戦闘態勢を整えた全員が、手に手に法具を携えて寺を飛び出し、音のした方へと急行した。
わたしはよくわからないまま、一生懸命コロちゃんとマロくんの後を追うのだった。
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