補陀落の海
九鬼さんの説明によると、そろそろ那智勝浦という地域の沖合に至るそうだ。
熊野三山の一角として有名な那智、そして良港として知られる勝浦。
観光地のイメージが強いこの土地だけど、ユラさんにとっては特別な因縁のある場所でもある。
一ツ蹈鞴講の一員として現れたユラさんの妹“白良”さんは、12年前にこの地で消息を断ったのだと聞いた。
那智勝浦では満月の日以外に月を凝視すると、桂男というあやかしに招かれて命を落とすといわれている。
月に住む美男と伝わる桂男に招かれてシララさんは姿を消し、ユラさんのお祖父さんである宗月さんはその呪いを受けて亡くなったという。
南紀の海は美しくも妖しく、そうした人智を超えた力の気配が濃厚に漂っている。
串本から先ではきれいに霧が晴れたが、わたしたちが航行しているのはまだうつし世とかくり世のはざまのようだ。
遠く沖合いに、何艘もの不思議な形をした小舟が揺らめいているのが見える。
それは真ん中に小屋のようなものを設えた粗末な舟で、その四囲にはなぜか鳥居が立てられている。
そして、小屋には窓も入口もなにもないのだった。
「あれは補陀落をゆく舟。たくさんの渡海上人の、さまよえる魂の記憶たち」
わたしの側に立ったユラさんが、いつになくしんみりした声で説明してくれる。
そうか、あれが……。
“補陀落渡海”の舟――。
補陀落とは、観音菩薩が降臨するという霊山を意味している。
熊野でははるか南海に浄土があると信じられ、生きたまま舟に乗ってそこを目指す補陀落渡海という一種の捨身行が実施されたのだ。
平安時代から江戸時代中期にかけて、20回の渡海が行われたとも記録されている。
戦国時代に日本を訪れたイエズス会士、ルイス・フロイスもこのことについて書き残しており、宣教師たちにとっても衝撃的な信仰だったようだ。
結界の海を延々と漂う渡海船団に向けて、オサカベさんとユラさんが合掌した。
「オン ボク ケン」
「アボギャ ベイロシャノウ マカボダラマニ――」
オサカベさんが真言を唱え、ユラさんが祝詞のような邦訳で唱和する。
サンスクリット原典に近いお経のことはさっぱりだけど、ユラさんの唱え言葉でわたしにも呪文の意味が伝わる。
――オン 不空なる御方よ
毘盧遮那仏よ
偉大なる印を持つ御方よ
蓮華よ
宝珠よ
光明を放ち給え
「――ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
舵を操る九鬼さんも片手で拝礼し、わたしもみんなに倣って渡海上人たちに手を合わせた。
現世を離れ、生身のままで観音浄土へ至ろうとした人々。
その信仰がどのような気持ちに支えられたのか、あるいはそれが心から望んだことだったのかわたしにはわからない。
けれど何とはなしに、渡海上人たちの足跡が桂男に導かれて姿を消したシララさんのこととオーバーラップしてしまう。
わたしたちの船は、間もなく目的地である新宮という街に至ろうとしていた。
そこにある「新宮城」が、紀伊最東端の結界を司る鎮壇なのだという。
九鬼さんの操るクルーザーは、ついに新宮の沖へと至った。
港ではなく、広大な河口に設けられた水門から河を遡上していく。
これが「川の熊野古道」とも例えられる一級河川、熊野川だ。
世界遺産である「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部であり、神武がこの川沿いに大和へと至ったという神話の地でもある。
川を遡上してほどなく、正面に鉄道線路の渡る長い橋が見えた。
そして左手には小高い山が聳え、ところどころに城郭を表す石垣の構造物が確認できる。
これが「新宮城」だ。
九鬼さんはそちらへとクルーザーを寄せていき、やがて城の麓の河岸が船溜りのようになった場所でスピードを落とした。
桟橋が設けられており、そのまま城内への登り口に通じているようだ。
「俺が付き合えるんはここまでや。この城の地鎮、頼んだで」
弓と矢筒を小脇に抱えたオサカベさんが船縁から桟橋へと跳んだ。
次いでわたしも橋へ降り、最後に残ったユラさんに九鬼さんは細長い袋を手渡した。
「預かってった。六代目の愛刀、篝や。抜かずに済むに、こしたことないんでけど」
「――おおきに」
刀を受け取ったユラさんも桟橋に跳び、九鬼さんのクルーザーは結界の海へと戻っていった。
わたしたちが降り立ったのは、新宮城の“水の手”。
かつては熊野川に面した船着き場と倉庫群が整備され、遠く江戸との流通拠点になっていたそうだ。
古代遺跡のような石垣の群れを、わたしたち3人は頂上に向けて上っていった。
この城に棲むあやかし、その名は“丹鶴姫”。
この名を持つのは平安末期から鎌倉初期に生きた実在の人物で、頼朝の祖父である源為義の娘としてこの地に生まれたのだった。
かつてここに姫の住まいがあったことから、新宮城は別名を丹鶴城とも呼ばれている。
が、いつしか姫と同じ名のあやかしが、この城に現れるようになった。
夕暮れ時、緋袴姿の女が子どもを扇で手招きし、招かれた子は次の日の朝には命を落とすという恐ろしい伝承がある。
また、丹鶴姫の使いとして黒い兎がおり、これに目の前の道を横切られた子どももやはり命を奪われるのだという。
と、本丸近くまで上がったわたしたちの前を、何かが素早く駆け抜けるのが見えた。
石垣の上で立ち止まりこちらを振り返ったそれは、伝承通りの黒い兎だった。
丹鶴姫の使いと思しき兎は走っては振り返り、まるでわたしたちを導いているかのようだ。
広場になっている本丸跡に至ると、黒兎は真っ直ぐ天守台の方へと走っていった。
城は赤い夕陽に照らされて血のような色に染まり、その先には女が一人佇んでいる。
鮮やかな緋袴、ゆるく一つ結びにした長い髪、そしてユラさんと瓜二つの佇まい。
「――白良」
表情を引き締めるユラさんに対して、その人はうっとりするほどやわらかな笑みをこぼした。
「待ってたよ。――お姉ちゃん」
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