ぼくの育った地元には大きな川が流れていて、その川原で毎年お盆の頃に夏祭りが行われる。
近隣では有数の規模のお祭りで、盆踊りとか灯籠流しとか打ち上げ花火とか、とにかくフルコースの行事だった。
そしてものすごいのが夜店の屋台で、河川敷いっぱいはおろか、沿道にまでわんさかはみ出してひしめくのだ。
普段は夜になると真っ暗な界隈なのだけど、この日ばかりは遠くからでもその灯りが認められて、幻想世界の夜市が開かれているかのような賑わいとなる。
地元の男子学生にとって、彼女連れでこのお祭りに行くというのがたいへんなステータスとされていた。
あいつ何か最近付き合いわるいなー、と思っていたらあんのじょう、毎年一緒に夜店をひやかしていたのに「今年はちょっと……」などと言い出すのだ。
でも小さな街のことだから、コソコソしたところでお祭り会場では絶対に誰かに発見されて、またたく間に噂は広まる。
何組のA田と何組のB子が手つないで歩いてた!
いやいや、C山は隣町の女学校の子と付き合ってる!
等々、日に千里を駆け抜けるという噂話のその速さたるや。
そんな勇士は男連中からやっかみ半分に崇拝され、休み明けには取り囲まれて「にくきゅう」の形にしたパンチで小突き回されるのだ。
これを英雄といわずして何と言おう。
ずーっとモテたためしのないぼくは、当時もちろんそういった話題には蚊帳の外で、ある種平和な心持ちですらあったといえる。
でも、でも。
ぶっちゃけ羨ましくないはずがない。
彼女を連れて夏祭りに行きたい!
モテない男の子なら誰しも、そんな魂の叫びをぐっと呑み込んでいるはずだ。
でも、こういうのもやっぱり風情だったりするんですよねえ。
青春時代の苦酸っぱい思い出を胸に、すっかりおじさんになったぼくはお祭り会場最寄りの駅に降り立った。
ここに来るのはもう、じつに久方ぶりだ。
今日はお仕事だったのだけど、ものすごく久しぶりなこともあって花火でも見ましょうと、伊緒さんと待ち合わせているのだった。
構内はどわっと人でごった返し、色とりどりの浴衣を着込んだ女の子がいっぱいで、まるで変わり咲きの朝顔市みたいだ。
ぼくが高校生の頃はまだ、駅員さんが手で切符にスタンプを捺していたのが自動改札になり、駅舎も近代的に改装されて当時の面影はない。
そのせいか、いつもならどんな人ごみでも瞬時に分かる伊緒さんの姿が、なかなか見つからない。
改札を出て、見えるところにいると言っていたのに。
右から左へざあーっと視線をめぐらせる。
今度は左から右へざあーっと……。
と、こちらに向かって小さく手を振っている女性がいる。
疲れ目のピントがその人に合った瞬間、ごく控えめに言ってぼくの世界のすべてが静止した。
ファウストは言いました。
「時よ止まれ」と。
「君は美しい」と。
そこには白地に濃紺の桔梗柄をあしらった浴衣姿で、伊緒さんが佇んでいた。
長い黒髪は頭の上でゆるくお団子にして、素足の下駄履きがなんともあどけない。
これはもう、完全に意表を突かれてしまった。
まさか、浴衣を着てくれるとは……。
心がまえなぞできていなかったぼくは、阿呆のやうに立ち尽くすのみだつたのです。
さういふものにしか、なれなかつたのです。
時よ、止まらなくていい。
君はずーっと、美しい。
「大丈夫?ぼんやりして」
いつの間にか目の前まで来ていた伊緒さんが、心配そうにぼくの顔をのぞきこむ。
落ち着け、落ち着け、目の前にいるのは、ただの天女様だ。
その後どうやって錯乱状態から持ち直したのか覚えていないけれど、クンダリーニ・ヨガの火の呼吸についての知識が役立ったに違いない。
伊緒さんが今日お召しの浴衣は、料理のお師匠でもあるおばあちゃんから受け継いだものだそうだ。
「せっかくだから、久しぶりに袖をとおしてみました」
伊緒さんはそう言って照れていたけど、清楚な色と柄が彼女の雰囲気にとてもよく似合っている。
河川敷へと続く人の流れに加わり、並んで歩いていると嬉しさがこみ上げてきてしまう。
横目でちらちらと何度も伊緒さんを見て、時折り目が合うとハッ!と慌てて目をそらす。
なにをしているんだとは思うけど、なかなかやめられない。
建物が途切れて、川を見下ろせるようになったとき伊緒さんが歓声を上げた。
無数の灯籠が次々に流れていき、やわらかな灯火が水面に反射して川そのものが光っているかのようだ。
立ち並ぶ夜店の明かりとは明らかに異質なのは、あれが魂を送る舟だからだろう。
河川敷はかつてと変わらず、人でごった返していた。
花火までまだ間があるので、伊緒さんと夜店を冷やかしてまわる。
川原石の足下は少し不安定で、彼女が転んだりしないように自然と手をつないで歩いた。
なるほど、こうなるのか。
ちょっといい雰囲気ではないか。
金魚すくいとか綿あめとか、射的とかたこ焼きとか、全国どこでも見られる定番以外に、伊緒さんにとっては珍しい屋台があったようだ。
ひとつ、鮎の塩焼き。
ひとつ、冷しキュウリ。
あまり知られていないけど、鮎は伊緒さんの故郷の北海道でも捕れる川魚だ。
でも夜店の屋台で見るのは初めてだという。
冷しキュウリはもう、氷でしめた一本漬けを串にしただけのシンプルこの上ないものだけど、これも伊緒さんは珍しがった。
せっかくなので一本ずつ買って、食べながらぶらぶらする。
淡白できめの細かい鮎の身は、伊緒さんのお口に合ったみたいだ。
けっこう塩気がきいているので、その後の冷しキュウリがことのほかおいしいと喜んでくれる。
そう言えば屋台の食べ物って串が多いような気がする。
調理しやすくて売りやすくて食べやすいからか。
しかし、ああもう!串持ってもふもふ食べてる伊緒さんの愛くるしさよ。
その破壊力に変な汗が出てくる。
なんかおかしなこと言ってるかなあ。
次はみかん飴でも食べさせたいなあ、などと企んでいると、伊緒さんが焼きそばの屋台をじぃーっと見つめているのに気がついた。
食べたいのかな?と思ったけどそうではなくて、炒める手際を一生懸命観察しているのだ。
両手に持ったヘラで豪快に具と麺を混ぜ合わせ、ソースを大きく放射状にかけ回す。
熱い鉄板にかかったソースがじゅわっと蒸発し、えも言われぬ香ばしい匂いが沸き立った。
「そっか!鍋肌で焦がせばいいんだわ!」
突如大きな声を出した伊緒さんはぽんっと手を打って、あたまに「ぺかーっ」とまめ電球を灯している。
どうやら、焼きそばの極意を掴まれたようです。
「今度つくるから!めだま焼きのっけてあげるね!」
”にひひー!”と伊緒さんが屈託なく笑う。
ああ、もう、らめぇ。
と、その時後ろからぽんぽん、と肩を叩かれた。
「秋山?やっぱり!めっちゃ久しぶりやん!」
振り向くと、懐かしい高校時代の同級生の顔が。
モテないズのエースとまで呼ばれた男だ。
「あ……!もしかして、彼女……?」
伊緒さんとぼくを交互に見比べて、ワナワナと震え声を出す。
いや、その、嫁さん……でして。
なぜか敬語になって言い終わるか終わらないかのうちに、
「ちょっ…!おまっ!……ちょっ!」
と、これまた懐かしい拳を「にくきゅう」の形にしたパンチを繰り出してくる。
すると奴の背後からかわいらしい女性と、小さな男の子がひょこっと顔をのぞかせた。
「うん、俺の嫁さんと子ども」
ドヤ顔で申告する奴に、今度はぼくがにくきゅうパンチを多めにお見舞いしてやった。
お互いのお嫁さんが、笑ってぺこりとお辞儀を交わしている。
連絡先だけ交換してすぐに別れたけど、なんだかうれしい再会だった。
あれから時が過ぎて、それぞれに幸せをつかんで、家族を連れてこの夏祭りに来ているんだ。
そのことに不思議な感慨をおぼえる。
「晃くん、あのね――」
伊緒さんが何か言いかけたその時、ひゅぱあっと一条の光が天に登っていき、消えたかと思った直後、夜空に大輪の花を咲かせた。
数瞬おくれて「どっぱん」とおなかの底に響く音が弾ける。
伊緒さんもぼくもすっかり喜んで、話しかけていたこともひっこめて夏夜の宙に釘付けになった。
あとでゆっくり聞けばいい。
もし忘れちゃっても、それはそれで構わない。
時よ、止まらなくていい。
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