ぼくには秘密の趣味がある。
友人にも会社の同僚にも打ち明けたことのない、密やかな楽しみ。
何とすれば、ただひたすら恥ずかしいのだ。
それは、小説を書くこと。
この世でただ一人、伊緒さんを除いて誰にも知らせたことのない、ぼくの趣味だ。
伊緒さんと仲良くなったのも、もともとは文章を書くことがきっかけだった。
ぼくが今の会社に入る前、派遣社員として出版や印刷の業界で校正やライティングをしていたとき、同じ職場でチームになったのだ。
伊緒さんは自宅でライターをしながら、安定収入のためにスポットで派遣の仕事をしていた。
歴史記事を得意としていた彼女と、ひそかに小説を書いていたぼくが意気投合するのは、また別のお話。
ものすごく恥ずかしいのに、伊緒さんには小説書きの趣味を自分から話したのは今でも不思議に思う。
きっとぼくには分かっていたのだ。
この人は絶対に笑わない。
身を乗り出して、興味深そうに話の続きを促してくれることを。
伊緒さんはそうして、ぼくの作品の最初の読者になってくれた。
ぼくはそれが本当に嬉しくて、結婚した今でも時間をとってはしこしこと小説を書き続けているのだ。
ぼくと伊緒さんが暮らすオンボロアパートの間取りは2DK。
大家さんは見栄をはって2LDKだと言っているけど、まあDKの部分がやや広いのでそこが食卓兼ふたりの共有スペースになっている。
そうして一応ひとり一部屋ずつ、という感じで割り振っているのは、ぼくは家に仕事を持ち帰ることが多く、伊緒さんは歴史ライターの仕事を続けているからだ。
それぞれの仕事部屋、という建前なのだけど、たいがいどっちかがお互いの部屋に入り浸って作業の邪魔をしては遊んでしまうのだった。
今日は伊緒さんも〆切の迫った原稿仕事があり、ぼくも挑戦したい文学賞に向けて書いている作品が大詰めなので、金曜の夜だけどそれぞれの作業をしようということになった。
伊緒さんほどではないけど、ぼくも歴史が好きで特に幕末史に興味があった。
そこで、その時代に生きた人や出来事を題材にした小説を書いてきた。
それもあまり有名ではない人物にスポットライトを当てて、こんな人がいたんだ、という自分の感動を形にすることを心がけている。
いま取り組んでいるのは、坂本龍馬の海援隊が運用していた蒸気船が、紀州藩の軍艦と衝突して沈んだといういわゆる「伊呂波丸事件」をテーマにした小説だ。
日本初の蒸気船同士による海難審判としても有名なこの事件には、まだまだ謎が多い。
主人公は龍馬ではない。
紀州藩の蒸気船「明光丸」の艦長、「高柳楠之助」という人物の視点で物語を進めている。
紀州が土佐に莫大な賠償金を払うことで決着したこの事件は、明光丸の一方的な過失というイメージが植え付けられているが、実際にはそうではない。
事故というピンチを巧妙にチャンスに変え、まんまと賠償金を手にした龍馬たち。
その裏では、船乗りたちと藩の重役たちとの、歴史を左右する熱い戦いがあったのだ。
明光丸艦長の高柳は英語に堪能で、本格的な操船訓練を経た当代随一のシーマンだった。
そんな彼が、いったいどのように龍馬に立ち向かったのか。
ぼくの想像はふくらみ、ついに小説にするほど夢中になってしまったのだ。
キーボードから手を下ろし、大きく伸びをした。
首やら肩やらを回すとぼきぼきごりごりと気持ちいいくらいの音が鳴り、ずいぶん身体がこわばってしまっていた。
時計を見るともうすぐ午前2時になろうとしている。
伊緒さんはもう寝ただろうか。
ふと、ふたりの部屋を隔てる板戸から、かりかりかりとひっかくような音がした。
ぼくが探るように小さく「ニャア」と言うと、戸の向こうから「ニャー!」と力強い鳴き声が返ってきた。
作法どおりにちょっとずつ戸を引き開けて、伊緒さんが顔を覗かせる。
「お疲れさま。一段落した?」
そう言いながらずりずりと膝でにじり寄って伊緒さんがぼくの部屋に入ってきた。
もう、お作法はいいんですよ。
夜中までの作業でちょっとハイになっているとき、彼女は茶の湯っぽい動作を好んでするのだ。
「キーの音が止んだから。私もさっき入稿できたわ」
伊緒さんが少し赤い目をして、疲れた顔で微笑んだ。
ぼくも物語の世界から、現実へと頭が切り替わる境のぼわーっとした疲労感が押し寄せてきた。
口を開こうとした瞬間、盛大にお腹が鳴った。
とっさに伊緒さんがお腹を抑えて、
「ごめん。わたし」
と、言ってぺろっと舌を出す。
「ぼくも鳴りました。シンクロしましたね」
妙なところでも仲良しなのだ。
夕食はちゃんととったけど、この時間まで書き物をしているとものすごく空腹になる。
ところが、こういうときに限って備蓄の食料がなかったりするのだ。
ふいに、外から懐かしくも蠱惑的なラッパの音色が聞こえてきた。
ふたり同時に顔を見合わせる。
「行きましょう」
伊緒さんが敢然と立ち上がった。
この時間にラーメンだなんて、大丈夫だろうか。躊躇するぼくを引っ張るようにして、真夜中の街へ踏み出した。
寒い寒いとさわぎながら、行く手に灯台の火のような赤ちょうちんを見つけて、小走りに駆け寄る。
2人前のラーメンは屋台のおやじによって手際よく供され、また伊緒さんと顔を見合わせると、どちらからともなく笑みがこぼれてしまう。
「いただきます」
丼を両手で包み込むようにしてスープをすすると、醤油の香りと煮干しの風味が優しく胃の腑に落ちていった。
なんだか格別においしい。
この土地で暮らすようになって、ラーメンだけは自分が育った地域のものよりも口に馴染んだ。
煮干しをたっぷり使った関東風のラーメンスープはほっとするような味わいで、なんだか懐かしさすら覚えるものだった。
それにナルトや海苔といったトッピングもぼくには珍しい。なんとも楽しげでノスタルジックな雰囲気だ。
「伊緒さんのお国は、やっぱり味噌ラーメンですか」
はふはふと麺に取り組んでいる伊緒さんに聞いてみる。
「そうだあ。バターのっけてね。したっけ、あったまるしょ」
おお、何やら自然に訛ってるぞ。
「晃くんとこはどんなラーメンだったのさ?」
「せやな、うっとこは豚骨醤油のスープに中細麺やな。ほんで、鯖寿司一緒に食べるねん」
「ええっ?鯖寿司!?」
伊緒さんと屋台のおやじの声がハモった。
99%の他道府県民はこのようなリアクションをするのだ。
にやり。
ぼくの育った土地では豚骨醤油スープのラーメンを小ぶりな丼に盛り、「早なれ」と呼ばれる鯖寿司、つまり若いなれ寿司と一緒に食べるのが普通だ。
早なれはたいがい、各自のテーブルにゆでたまごなんかと一緒に盛ってあり、お客さんは自由にとって食べて会計のときに数を自己申告するのだ。
不思議なことに、ちょろまかすような不心得者には出会ったことがない。
「こってりしたスープに酢飯の酸味がよく合うんですよ」
「ふーん」
また伊緒さんとおやじがハモる。
「兄さん姉さん、遠くから来なすったんだねえ。いやあ、きょうびアベックで夜鳴きラーメンすすってくれるなんざ、嬉しいじゃねえか。これからもごひいきに」
そう言ってぼくと伊緒さんにたまごとチャーシューを追加してくれた。
嬉しい。
でも、アベックって久しぶりに聞いた。
「じゃあ、今度そのラーメン食べに連れて行ってね」
伊緒さんがにこにこしながらそうねだる。
身体がすっかりあったまったようで、ほっぺたがほんのりピンク色になっている。
お互いの故郷で、それぞれに慣れ親しんだラーメンを食べるなんて、さぞや楽しいだろう。
このシーンがそのまま小説になりそうだと思いながら、ぼくはナルトを口に放り込んだ。
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