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第二十三椀 「きつねうどんとお稲荷さん」。伊緒さんと関西の味

小説
Koenigさんによる写真ACからの写真
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 ありがたいことに半分物見遊山のような出張、というのが時たまある。
 印刷関係のイベントとか、美術館の特別展とか、お仕事の役に立ちそうなことだったら、出勤扱いで行かせてくれるのだ。
 もちろんほとんど自腹なのだけど、仕事柄もあって特別展のチケットなんか持たせてくれることもある。
 そんな時はできる限り伊緒さんを誘って一緒に行くことにしている。
 ぼくに甲斐性がなく、旅行らしい旅行にはまだご招待できていないことの罪滅ぼしもかねて。

 それは関西方面に伊緒さんと行った時のこと。
 教科書に載っている寺社仏閣や史跡の宝庫たる関西は、歴史ライターの彼女にとって垂涎のテーマパークのようなものらしい。
 その時の旅は大阪が中心だったのだけど、大阪城の巨大な石垣とお濠に驚愕し、難波宮の跡地で古代に思いを馳せ、大阪歴史博物館の動くジオラマのボタンを全部押してはキャッキャとはしゃいでいた。
 こんなに喜んでくれるとぼくも嬉しい。
 いや実に嬉しい。
 極めつけは天神橋筋六丁目にある「くらしの今昔館」で、ここは江戸時代の大阪の町並みを実物大で再現しており、商家や長屋などに入れるようになっている。
 これを目にした時の伊緒さんのはわはわ感といったら、かのネズミさんがいらっしゃる夢王国の扉を開いた少女もかくや、といった様子であった。
 実に嬉しい。
 館内では上方落語の大家による展示のアナウンスが流れ、簡易版の着物をまとって中をウロウロできるようになっている。
 実際に着物を着せてもらっているのはほとんど海外からの旅行客のようだったけれど、さっそく町娘に変身した伊緒さんがキラキラの笑顔で商家のノレンから顔をのぞかせている。
 うう。かわいい。
 でもぼくの着物姿はまるで江戸期のヒモみたいだ。
 さして広くはない館内だけど、長屋なんかはかなり作り込んであってそのまま住めそうなくらいだ。
「なあ、あんた。干しもんはよ取り込んでんか」
「せや、味噌切らしとったんやわ」
「もう!いけずせんと早うおいでえや!」
 等々、いつの間にか上達した関西弁を駆使して、伊緒さんが江戸期の長屋夫婦ごっこを始めた。
 そうこうしているうちにあたりがほんのり茜色に色付いてきて、カラスの鳴き声なんか聞こえ始めた。
 みるみるうちに暗くなって、そして空には月が出る。
 そう、ここでは早送りで一日の時間が流れていくという、照明による演出がなされているのだ。
 しかも時折雨がふったり雷が鳴ったりと、とにかく大サービスだと思う。
 伊緒さんのご機嫌は最高潮に達し、
「かみなりさんやー!」
「あんたもう朝やでー!」
「いつまで寝てはんのー!」
 と江戸期のおかみさんが憑依したかのように元気いっぱいだ。
 まことに祝着至極。
 遊び疲れて満足し、今昔館を出たところでおなかがぺこぺこなのに気が付いた。
 天六の商店街にはレトロな飲食店も多く、一軒のうどん屋さんに目星をつけて入った。
 暖簾をくぐった瞬間に、ふわあっ、とダシのいい香りが鼻をくすぐる。
 ぼくには懐かしい匂いだけど、伊緒さんにはこれも実にエキゾチックに感じられるらしい。
 小動物のように鼻をすんすん鳴らして楽しそうだ。
 壁一面にメニューの短冊が貼られており、どれも大坂夏の陣の頃に書かれたのだろう、いい感じに古びている。
 伊緒さんが激しく反応したのは「きつねうどんとお稲荷さん」のセットメニューだった。
「ねえねえ、晃くん!”きつねうどん”ってあぶらあげがのっかったおうどんよね?」
「せやで」
「”お稲荷さん”っていなりずしのことよね?」
「せやんな」
「すごい!どっちもあぶらあげ!」
 かくして伊緒さんの琴線にふれたきつねうどんとお稲荷さんが、「はい、おまっとうさん。おおきにやでえ」と、陽気なおばちゃんによって運ばれてきた。
 ぼくは大阪らしく、肉うどんからうどんを抜いた「肉すい」と、炊き込みご飯である「かやくご飯」にした。
「はい。おおきにです」
 と、伊緒さんが嬉しそうに受け取る。
「わあ、おつゆが透明!」
 関西風のうどんらしい、透き通ったスープに彼女が目を丸くする。
 なぜかぼくは何となく得意げな気持ちになる。
 きちんと手を合わせて「いただきます」と唱え、伊緒さんは立ち上る香りを楽しんでからそっと器を両手で包み、つゆを一口吸った。
 ごくん、とのどを鳴らす音が聞こえて、
「っふあぁぁぁ」
 と伊緒さんが不思議な声を出した。
 どうやらものすごくおいしいらしい。
 もう一口つゆを飲んで、ちゅるちゅるとうどんをすすって、そしていよいよあぶらあげ、関西でいう”お揚げさん”に箸をのばした。
 おもいのほかずっしりとしたそのボリュームに驚きながら、伊緒さんがお揚げさんにかぶりつく。
 じゅるっ、とあふれ出たお揚げの煮汁が滴になって、ぽたぽたとつゆに垂れていく。
 もふ、もふ、もふ、と咀嚼している伊緒さんは、猫のように目を細めて味わっている。
 いや、むしろ今はこぎつねっぽいと言ったほうがいいのか。
 こくん、と口の中のものを飲み込んだ伊緒さんは、
「あまくておいしい」
 と、うっとりした表情で溜め息をついた。
 関西風のうどんつゆは透明に見えるほどだが、その味は薄いのではなくしっかりと出汁の旨味がきいている。
 最後の一滴まで飲み干せる、といわれる所以だ。
 あぶらあげは甘めの味付けで煮含められており、肉に優るとも劣らない存在感をもって淡白なうどんの上に君臨している。
 いい出汁をたっぷり使っているためもあり、うどん屋さんのお揚げさんがおいしいのは道理だ。
 もちろんお稲荷さんも同様で、酢飯の酸味がうどんつゆと絶妙に合うため、奇跡のマリアージュながら関西ではポピュラーな組み合わせだ。
 この時から、関西風のきつねうどんとお稲荷さんは伊緒さんの大好物リストに加えられたのだった。

 大阪旅行から帰ってきて間もなく、ある日の夕食に大量のいなりずしが並んだ。
 呆気にとられて山盛りのお稲荷さんを見つめるぼくに、
「ごめん。ほんとにごめんなさい」
 と、伊緒さんが頬を赤らめた。
 すっかり気に入った大阪の味を再現しようと実験を重ね、夢中になって作りすぎてしまったのだという。
 でも、上下をひっくり返してお揚げの切れ目から酢飯の上に、ピンク色の桜でんぶをあしらったかわいらしいそれは、ぼくが今まで食べたどのお稲荷さんよりもおいしかった。
「めっちゃおいしいわ」
 お稲荷さんを頬張りながら、ぼくは絶賛した。
「ほんまに?」
 伊緒さんはちょっとほっとした顔でお稲荷さんをひとつつまみ、ぱくんと齧ってこぎつねのように目を細めた。

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