歪な結界
「えっ、和歌山にもカッパっているんですか?」
実に意外に思って、ユラさんに訪ねた声がつい大きくなる。
「ちょっ、あかり先生、声」
cafe暦のテラス席で、ユラさんがちょっとあわてて人目を気にするのがなんだかおかしい。
まあまあ、これだけ聞かれたところで妖怪と遠野物語が好きな女子たちと思って、生温かい目で見てもらえるだろう。
紀伊各地の鎮壇を再地鎮する任務を帯びたユラさんとわたしは、散発的に和歌山県内の数か所を巡らなくてはならなくなった。
この近辺と同じように、あやかし達への結界として機能している史跡や寺社、工芸品などの文化財を訪ねてその力を更新するのだ。
これまでは各所の結界守たちがそれを担っていたのだけれど、紀伊全体の結界が意図的に弱められていることが判明したため強力な措置が講じられた。
それが、結界の基礎となる土地そのものをより強固に祀る“紀伊再地鎮計画”だ。
その祭式を執り行うため、一ノ宮より古いはじまりの神社、ゼロ神宮こと瀬乃神宮のユラさんに白羽の矢が立った。
で、そのスポットには様々なものがあるのだけど、今回向かう田辺という街では、かの有名な”河童”にまつわる伝説があるのだそうだ。
それを聞きかけてびっくりするわたしが、なぜユラさんとcafe暦のテラス席で向かい合っているか。
それはまさにこれから車で出発しようかという朝であり、またしばらくお店のことをお願いする店長代理の伊緒さんに挨拶しにきたためだ。
朝早くからお店に入っていた伊緒さんはわたしたちの来訪を喜んでくれ、ならばということでわざわざ朝食を整えてくれている。
本来のマスターであるユラさんと、臨時バイトのわたしがご馳走になるのも申し訳ないのだけれど、伊緒さんはいつものようににこにこしながら快く送り出そうとしてくれた。
彼女にはただ、「文化財調査のサポート」と説明してある。
「もちろん紀伊にもカッパの伝説はようけあるんよ。こないだ一緒に、裏隅田一族の人らと大鯰さんの供養した紀ノ川あるやろ。あっこの下流に“ガタロ岩”いうんがあって、ガタロはカッパのことやねん」
ユラさんいわく、紀伊の中でも河童には各地で様々な呼び名があり、これから向かう田辺のそれは”ゴウラ”というらしい。
と、伊緒さんがお皿を2つ運んできてくれた。
「2人とも、たまごは半熟でだいじょうぶでしたよね?さあ、熱いうちにめしあがれ!」
そこには、トーストとサラダとスクランブルエッグがワンプレートに盛り込まれた、正しいモーニングが。
たまごはもう見るからにとろとろふわふわで、わたしには絶対まねできない火加減だ。
伊緒さんは、めちゃくちゃに料理が上手な人だった。
今のcafe暦の繁盛は、ひとえにこの店長代理の活躍のおかげで、ユラさんも安心して任務に就くことができると呟いていた。
手を合わせて元気よく「いただきます!」と唱和し、わたしはさっそくスクランブルエッグをスプーンですくおうとした。
すると、ぷるんと弾けた半熟たまごの中から、みにょーんと伸びるとろけるチーズが。
これは伊緒さんの得意技で、前に見たときはアツアツに熱したフライパンでたまごに火を入れた瞬間に細切りのチーズを包むように混ぜ込んでいた。
うっとりしながらほおばり、
「おいひいれふ」
と阿呆のように口走る。
「そう、よかった」
と伊緒さんがにっこり微笑み、これは常連にもなるわと心から思ってしまう。
ああもう。結婚してくれよ。
田辺の任務から戻ったら、もういっぺん教えてもらおうと決意するわたしだった。
ユラさんの運転する車で、わたしたちは田辺市の近露というところへ向かった。
その名も中辺路町といい、これは熊野古道のルートのひとつでもある。
中辺路とは田辺市を発して熊野本宮、那智大社、そして速玉大社といった熊野三山を巡る参詣道だ。
いま向かっている近露はそのルート上にあり、地図で見ると和歌山県の真ん中からやや南といった山中だ。
そこへと至る道路は様々だけど、わたしたちの暮らす県北東からの最短ルートとして、ユラさんは高野山をかすめて山道をつっきることを選んだ。
ぐんぐん高度を増す山上の道に、わたしはまた思わず身を乗り出してしまう。
1,000m級の嶺々が連なる紀伊山地は、まさしくおいそれとは人の侵入を受け付けない霊場の趣きだ。
多くの動物や植物はもちろん、太古からの神々やあやかしたちが今なお息づいていることを体感させられるようだ。
「――結論からいうと、私はあいつらが間違ってるとは思われへんのよ……」
ユラさんが運転しながら、助手席のわたしへ唐突に語りかけた。
びっくりして言葉を呑んだわたしに、ユラさんは独白のように続けた。
「せやかと言って、正しいとも思ってへんよ。ただ、あの鈴木秀っていう男の子が言うとった”世界のあるべき姿”とか、“人間の都合で定められた歪な結界”とかが頭から離れへんようになって」
わたしはそっとペットボトルのお茶を開けて、ユラさんに差し出した。
おおきに、と笑って受け取り、口を湿らせる。
存分に続きを促すメッセージを汲んでくれたユラさんは、いつになく饒舌に語ってくれた。
「私はこれまで結界守として、課せられた務めを果たすことだけ考えてきたんよ。けど、それって、ほんまに天地の摂理に則ったことやったんやろか?あいつらが現れてから、初めてそんなこと思ったん。私らが退けようとしてるあやかし達って、いわば野生動物みたいな大昔からの居住者のはずやねんな。そら、襲われたら戦うよ。でも、干渉せえへんようにできたら殺し合う必要はないはず。ずっと昔、あの子は――白良は確かにそんなようなことを言うてたんや」
ふっ、とユラさんが遠い目をした。
「シララさんって、あのとき蹈鞴に“がんばったね”って言った……」
「そう。12年前に“間”で行方不明になった、わたしの妹」
ふうっ、とユラさんが重い荷物を降ろすかのように息を吐き、
「生きてた……」
と声を詰まらせた。
「やさしい子やった。白良がこれまでどんな風に過ごして、これから何をしようとしてるんかはわからへんけど……。もう一度会いたい。そのためにも私、一方的に封印するんと違ってあやかし達からも話を聞こう思うんよ」
きっぱりそう言ったユラさんは、ちょっとおかしそうに目元をやわらげてこう続けた。
「カッパさんが話してくれたら、なんやけどね」
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