柚子とさば骨

柚子とさば骨

  さっきから幾度となく魚焼きグリルを覗いては、固唾をのんで焼き加減を見守っている。
 約束の時間は十二時半だけど、彼のことだからおそらくマナーどおりに五分ほど遅れて訪いを告げるに違いない。
 いまかいまかと焼き上がりが待たれるノルウェーさばを筆頭に、メニューはもう実にありふれた、といった感じのものをなるべく自然にみえるようチョイスした。ただしなるべく旬の野菜をつかって、ひと皿ひと皿はっきり違う味付けにすることを心がけたのだ。
 春菊の白和えはすりゴマも加えてこっくりと甘めに。独特の香りは心を落ち着かせるともいうし、まあ、お互いにとっていいのだろう。
はしりの蕪はそのものの味が楽しめるよう、薄打ちにして昆布茶でもみ込んだ。香の物というか箸休めというか、地味なようだけどひそかに心強い一品だ。
 おつゆの実は豆腐と油揚げ。大豆たんぱく勢ぞろい。味噌汁の具はなにが好きー?という他愛もない話題で彼がそう答えたのを聞いていたのだ。
 そこに焼き目を付けた根深を厚めの小口切りにして浮かべておいた。大家さんの畑で採れたそれは、とても甘く柔らかい。脂ののった焼きさばに負けないよう、お出汁は昆布と煮干しで強めにひいてある。
 ご飯に関しては米どころのため、どうしたって大丈夫に決まっている。彼もこちらで就職してからお米のおいしいのにびっくりした、と社内で言っていたから。
 あと一品ぐらいほしいな…と思ったので肉豆腐も用意した。一瞬、肉じゃがという直球も頭をよぎったけど、いかにもあからさまな気がしてやめておいた。
 若いのにこんな和食のオンパレードでよかったのかな?と弱気にもなれば、いやいや、むしろこういう食事にこそ飢えているはずなのだよ、と奮いたってみたりと結構忙しい。
 そもそものはじまりは、彼があんまりおいしそうに魚を食べるからなのだ。
 わたしの勤める小さな会社では、売り上げがよかったりお祝い事があったりすると社長のポケットマネーで「お食事会」というのが開かれる。もっとも、ちょっといい目の仕出し弁当なんかが配られて、少ない社員みんなで食べる、というだけのささやかなものなのだけど。
 あれは新入社員歓迎の意味で開かれたお食事会の時のこと、今年は県外の出身者が多いこともあって、社長は張り切って名物「浜焼き鯖」入りのお弁当を用意したのだ。
 地元っ子のわたしにはありふれたものだったけど、彼はことのほかこれがお気に召したらしく、目を細めてそれはそれはおいしそうにさばの身を口に運び続けていたのだった。そして幸せそうに咀嚼しながらも時折り唇の端からぴゅくん、ぴゅくん、と器用に骨を出し、丁寧に箸でつまんでは容器の隅に並べていった。
 作法、という言葉が正しいのかはわからないけど、それが実に荘厳な手順であり、さばに対する最大限の礼儀のように思えて、わたしは彼の動作に釘付けになってしまった。
 その後とんとお食事会は開かれず、したがって彼の見事な食べっぷりを再び見る機会もないままだったのだけど、ついこのあいだ食事時にばったり彼と二人きりになってしまったのだ。
 社屋の裏には小さな庭があり、長い間手入れされていない藤棚と朽ちかけたベンチが置かれていて、わたしはほとんど誰も訪れることのないこの場所でお昼ご飯を食べることにしていた。その日珍しく先客がいることにびっくりしつつ、すぐに彼だとわかったのでなるべく平静を装って声をかけた。彼はコッペパン(古いか)のようなものをかじりながら片手に文庫本を開き、なにやら熱心に読みふけっている。
「なに読んでるの」
 いちおう聞いたけど実はすごく興味があるというわけでもないのよ、といった風を装ってさりげなく彼の肩越しにページをのぞきこんだ。口のなかにものがあるのを気にしてか、モゴモゴ言いながら本の表紙をこちらに見せてくれる。急いでパンを飲み込む音が聞こえて、ちょっと申し訳ない気持ちになった。細かいタイトルはもう忘れてしまったけど、時代劇に登場する江戸料理を題材にしたエッセイのようだ。きっと盛り蕎麦とか鰻の蒲焼とか、柳川鍋とか深川めしとか、そんなに馴染みはないけど何故だか郷愁をそそるメニューの数々が記されているのだろう。
 こんなものを読みながらパンなぞかじっている男の子を、わたしは心底可哀そうに思った。
「こういうの好きなんだ」
 文庫本をとりあげてぱらぱらページをめくりながらわたしがいう。
「はい」
 元気よく彼が答える。
「でもお昼、パンなんだね。いつもそう?」
 うるさい親戚のおばさんにでもなったような気持ちでわたしがいう。
「はい…」
 ややしょんぼりと彼が答える。心象が分かりやすいのは美徳なのだとその時思った。
「メガネ、すてきですね」
 唐突に彼が発した言葉に内心うろたえながらも、わたしは淡々、といった風情を損なわないよう落ち着いて切り返す。
「そうでしょう。鯖江メガネだもの。ところで、さば好き?」
 思ったとおり、彼が元気よくはい、と答える。
「そう。じゃあ今度お昼ごはん食べにおいで」
 満面の笑顔でもう一度はい、と答えた彼に軽く手を挙げて、わたしはさっそうとその場を立ち去った。大事なお弁当を広げることもすっかり忘れて。
 実に自然で、無理のないお誘いの仕方だったと満足していたのは会社にいる間だけのことで、一人になった途端さっそく自己嫌悪におちいった。メガネをほめられただけなのに、さばが好きなら飯を食いに来い、という会話の流れはどう考えてもおかしい。変なやつだと思われたに決まっている。でも家に帰った後、会社の連絡網で伝えてあった携帯のアドレス宛てに、いつならお伺いしてもいいですか、という簡潔なメールが彼から届いた。落ち着いて、あえて五分ほど間をおいて、今週土曜はどうかとメールを返した。
 すぐに返信があり、OKだという。では何時にこの住所へ来られたし、とそっけない文面をしばらく見返し、
「お腹すかせておいで」
 と最後に付けたして送信ボタンを押した。
 そうして迎えた今日という日なのだけど、あらためていろいろなことが不安になってくる。もしかすると、自分はじつはとってもいやらしいことをしているのではないか。
 ほとんど喋ったこともない年下の男の子を突然手料理に招くなんて、本当はどう思われているんだろう。「お昼ごはん」としたところもかえって何もしませんよー、安全だよー、と露骨に宣言しているようであさましかったのではないか。などと、いつまで考えてもしようのないことをあれこれしたところで、もう焼きかかったさばだ。わたしは彼が呼び鈴を押してこの部屋を訪れ、二三のあいさつの後に食卓につくまでのタイミングを念入りにシミュレートし、それはもう真剣に魚焼きグリルと対峙していた。
 さばは皮目が少しコゲ気味になったくらいが一番美味しいと思う。じりじりと熱せられ、我が身の脂でじうじう音を立てながら食べごろを迎えるこの魚に、わたしは紛れもなく賭けている。思わぬ大きさに膨らんだシャボン玉のように、皮の一部がぷーっとふくれてくる。つぶれないで、つぶれないで、と小さくお願いしながら慎重に火を弱めていった。そしてわたしは冷蔵庫から今日の秘密兵器をおもむろに取り出す。
 初々しい薄黄に色づいた小さな柚子だ。アパートの裏手で毎年実をつけるこの柚子を、いつか採りたいと思っていたのだ。わたしはわざわざ人の眼を盗んで夜中の樹下に立ち、明るいうちにめぼしをつけておいたもっともいい(と思った)実を、息をひそめてもいできたのだ。そうまでコソコソする必要はなかったかもしれないけど、たいへん興奮して楽しかった。
 それを少量の荒塩でよく洗い、きちんと水気をぬぐってまな板のうえにでん、と据えた。
 果汁はしぼっておろし大根にたっぷりと含ませ、焼きさばに添えよう。
 皮の一部は糸切りにして肉豆腐にちょん、とのせる。そしてのこりの皮はおろしがねですりおろし、百均で買ってきた茶筅をつかってこれ見よがしに春菊の白和えにふりかけるのだ。
 たしかレモンを爆弾に見立てて本屋さんに置いてくる、というお話が教科書に載っていたけど何だったっけ。わたしの柚子はうまく爆ぜてくれるだろうか。
 もう間もなく、彼がやって来る。魚を焼く匂いとともに、甘やかでやるせなく、どうにももどかしいような柚子の香りが出迎えるだろう。
 弾けろ―。
 心の中でそう呟き、わたしは小さな柚子を横一文字に断ち割った。

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