ようやく直しが終わった原稿の束を抱えて、2階の書斎から階下へと降りていった。
リビングから外を見やると、薄暗がりに慣れた目には世界が一瞬真っ白に感じられる。
やわらかな陽の差す庭にはたくさんの樹が植わっていて、ぼくたちは四季折々の花や実を楽しみにしていた。
サンダルをつっかけて庭に出ると、一本の樹ががさごそと揺れている。
「あ!見つかった!」
笑って木陰から出てきたのは伊緒さんだ。
その腕には、太陽をそのままぎゅっと丸めたかのような、夏みかんが抱かれている。
ぼくが子どもの頃からあった樹に、実ったものだ。
夏みかんは果実がずっと枝についたまま、また新しい実がなることから、正式には「夏橙(なつだいだい)」という。
そのまま食べるにはちょっと酸っぱいけれど、お菓子なんかの素材にはもってこいだ。
伊緒さんはこのお家に夏みかんの樹があることをとても気に入り、よく熟れたのをもいではゼリーやジャムをこしらえてくれる。
忙しかったであろうこれまでの修士課程の約一年半、伊緒さんはいままでどおり手を抜くことなく、いつもおいしいご飯をつくってぼくを出迎えてくれた。
そんな彼女は順調に修士論文を書き上げ、あとは口頭試問を残すだけだそうだ。
まもなく伊緒さんは、本当のマスターになるだろう。
「おやつできてるよ!一緒に食べましょう」
伊緒さんがそう言って、手元の夏みかんをぼくにパスした。
一旦母屋に入った彼女は、ほどなくお盆に涼しげなガラスの器を二つ載せて戻ってきた。
庭のテーブルにことん、と置かれたそれは夏みかんのシャーベットだ。
ほのかな黄色が目にもやさしい、伊緒さんの得意な夏の涼味。
ジュースにした夏みかんにはちみつとリキュールをまぜ、時折かきまぜながらゆっくり凍らせてつくるのだ。
それにさっきもいだばかりの、生の夏みかんを剥いてのっける。
皮が分厚いので剥きにくいけれど、すっかり慣れた伊緒さんは小さな果物ナイフひとつで、するりと中身を取り出せる。
甘く冷たいシャーベットと混ぜて食べると、初夏そのものを口に含んだようでとっても爽やかだ。
「おいしいですねえ」
「おいしいねえ」
じゃく、じゃく、とスプーンですくって味わいながら、伊緒さんが猫のように目を細める。
「晃くん、小説は完成したのね」
ぼくが持ってきていた原稿を見やって、伊緒さんが微笑む。
さっきまで手直しを加えていた作品は、出版に向けて最終調整を行っている段階だ。
これまで取り組んでいたテーマを思い切ってガラリと変え、おいしいご飯をつくってくれる素敵なお嫁さんを主人公にしたシンプルで軽やかなお話に仕上げた。
「編集の人から、タイトルの別案を出してほしいと言われまして。さんざん考えたけど、やっぱりこれしかない!と」
ぼくは新たなタイトルだけを印字した紙を、うやうやしく伊緒さんに差し出した。
「ちょっ……これっ」
紙面に目を走らせた彼女は、見る間に頬を染めていく。
「やはり伊緒さんにはだいぶモデルになっていただいているので……」
ぼくも急に恥ずかしくなってきて、言い訳がましく口ごもる。
「やだやだ、恥ずかしい!そのまんまじゃない!もっと別のタイトル考えて!」
「でももう、編集さんにこの案送っちゃって……」
「もう、ばかーーーっ!」
ぷんすかぷんすか、とばかりに伊緒さんは、残りの夏みかんをするする剥いてぱくぱく食べ始めた。
でも、本当は怒ってるんじゃなくて、これは照れているのだ。
付き合いも長くなってきたので、そのあたりは今のぼくにはよく分かる。
「伊緒さん、それそんなに食べて酸っぱくないですか」
ちょっと心配になって、おそるおそる尋ねる。
「すごくすっぱい」
伊緒さんがむふー、むふー、と怒ったふりを続けながら答える。
「酸っぱいもの苦手ですのに」
「うん、でも最近すっぱいものおいしい」
たしかに、無理に食べているわけじゃなくて、本当においしそうだ。
「ふうん……好みが変わったん……あっ!!」
まじまじと伊緒さんと顔を見合わせる。
彼女は、いたずらっぽく含み笑いを浮かべていた。
「やややや!」
「よよよ?」
「はわはわはわ!」
「にゃ?」
情けなくもすっかり浮足立ったぼくは、かけるべき言葉を探して右往左往するばかりだ。
そうこうするうちに伊緒さんはひょいひょいっ、とシャーベットの器を片付けて、母屋へと向かってしまう。
「伊緒さん、伊緒さん」
「ふんだ。知らない」
たったったっ、と小走りになった彼女は、でも途中でくるんと振り返り、
「ねえ!」
と、元気な声でぼくに呼びかけた。
いつもの、あの、弾けるような笑顔で。
「晩ごはん、なにが食べたい?」
『伊緒さんのお嫁ご飯』完
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