焚き火のにおい、ってご存じでしょうか?
木がはぜるときの、香ばしくどこか甘やかな煙のにおい。
たぶん、これまでの人生でそう何度も体験したわけではないはずなのに、どうにもたまらなく懐かしいような、切なくあたたかいにおい。
きっと焚き火には、遠い遠い祖先から受け継いだ、太古の記憶を呼び覚ます力があるのではないでしょうか。
でも、実際に火を前にしているわけではないのに、そんな素敵な共感覚を起こしてくれる飲み物があるのです。
それは、ウイスキー。
そう。とっても強いお酒の代名詞ともいえる、あのウイスキーです。
実をいうと、わたしはごく最近まで、ウイスキーというのは渋いおじさまが伝統的なバーやクラブで召し上がるもの、というイメージをもっていました。
はい、ベタで申し訳なく思っています。
ですがかなり強いお酒であることは事実で、大人の、それも男性の飲み物という先入観はけっこう根強いようでもありました。
ハイボールなどの気軽な飲み方もありますが、急激に人気が高まったのはやっぱりウイスキー造りを題材にしたメディア作品の影響が大きいでしょう。
そのブームはものすごく、いくつかのメーカーでは仕込みが追い付かなくなって、原酒が終売となる銘柄が出るほどなのだそうです。
かくいうわたしも、その作品はDVDを借りて夫と夢中になって全巻鑑賞したものです。
そんなウイスキーを初めてストレートで頂いたのは、わたしの故郷である北海道に夫と一緒に里帰りしたときのことでした。
空港に降り立って、「やいやいやいや、たいした久しぶりだねー」などと急にお国なまりを全開にしてテコテコ歩いていると、なにやら人だかりがしています。
なんだべなんだべ、と覗き込んでみると、どうやらウイスキーの試飲イベントをしているのでした。
よく知られているとおり、北海道はウイスキー造りの聖地のひとつで、頑ななまでにオーセンティックな製法は本場スコットランドの蔵人からも評価されているといいます。
「新婚さんですか? どうぞどうぞ、無料ですので味見してみてください!」
元気のいいおじさんが、元気よく声をかけてくれました。
もうたいして新婚でもなかったのですが、わたしたちはちょっと照れつつもすっかり気をよくして、勧められるままにテーブルに着きました。
胴がふくらんだ形のグラスに、小指の幅ほどの深さでウイスキーが注がれ、銘柄を書いた紙のフタがかぶせられています。
「きれいな色ですねえ」
夫が思わず、といった風情で感心しています。
エイジレスだそうですが、薄く削いだべっ甲のような、美しい色合いです。
「ねえ晃くん。
ウイスキーって40度くらいあるんだから、ごくっと飲んじゃダメよ」
お酒に強くない夫が誤って飲みすぎてしまわないよう、お姉さんぶって釘を刺しておきます。
そして、まだ香りを楽しむということも知らなかったわたしたちは、おそるおそるそのお酒を口に含みました。
「……うわあ…」
奇しくも開口一番の発声は、二人同時となりました。
強い!でも、なんて、なんておいしいお酒。
これはそう、焚き火のにおい。
「熾火を口に含んだかのような」
と、のちのち夫が形容したウイスキーに、わたしたちはそれ以来すっかり魅了されてしまったのでした。
「ぼくはあの時、初めてウイスキーを飲んだんですよ。
ビールですぐ酔っちゃうのに、40度のお酒なんて飲めるわけないと思ってましたから」
お家でウイスキーを飲むときは、必ずといっていいほどこの話になります。
わたしも下戸寄りな彼が、まさかあんなにウイスキーを気に入るなんて思ってもみなかったのです。
不思議なことに、わたしたち二人ともウイスキーでの酔い方はふんわりとやさしく後を引かず、ほどなくすっきり醒めるのでした。
もちろんアルコールが強いので飲む量が少ないこともありますが、蒸留を2回行うという純度の高いお酒のため、体質によってはそんな酔い方もあるそうです。
すっかりウイスキーの虜になったわたしたちは、いろんな銘柄を小さな瓶で飲み比べ、おぼろげながら好みのようなものがわかってきました。
大麦を使ったスモーキーなスコッチ、トウモロコシを加えた荒々しいバーボン、ライ麦で醸すカナディアン……。
同じスタイルでも銘柄や蒸溜所によって全然味が違って、貯蔵する樽の木材や熟成年数でもまったく風味が異なります。
ストレートだけではなく、ロックにしたり水割りにしたりするごとに、風情が劇的に変化するのも楽しい点です。
なかでもわたしたちが一番気に入ったのは、煙のにおいが引き立つタイプのものでした。
ウイスキー造りでは、麦芽の成長を止めるために煙でいぶすのですが、その燃料に使われるのが「ピート」と呼ばれる草炭です。
これがウイスキー独特の風味となり、ピートの香りが際立つことを「ピーティー」と表現するそうです。
さてさて、そんなわたしたちが今日の晩酌に選んだのは、お気に入りの国産銘柄です。
本場の伝統をそのまま継承し続けているといっても過言ではない、スモーキーフレーバーが素敵な逸品。
それでいて晩酌用のお手頃価格というのですから、家計にもとってもやさしいのです。
「ようし!では晃くん、中火の弱火で焦げないように、フライパンをゆすり続けてくださいね!」
「はあい」
しゃらしゃらしゃら、と夫が素直にゆすってくれているフライパンの中身は、今宵のおつまみ「ミックスナッツ」です。
それもお塩がかかっていない無塩タイプのもので、これをあらためてじっくり炒りつけるとパリッと香ばしく、それでいてしみじみと甘みを増したすばらしい肴になるのです。
アーモンドやカシューナッツ、ピーナッツやピスタチオ、そしてクルミにマカダミアナッツ。
味わいもそれぞれで、いろんな形と食感の違いも楽しいですよね。
わたしたちはこれを、世界でいちばんウイスキーと仲良しなおつまみだと信じています。
やがて、フライパンからあまーいにおいが立ちのぼってきたら食べごろです。
お皿に紙を敷いて、そこにざあっとナッツをあけてもらいます。熱がかき回されてひときわ強く薫り立ち、わたしたちはそれぞれのグラスにウイスキーを注ぎ合います。
ひとつはストレート、もうひとつはロックで。ときおり交換しながら飲むのが好きなのです。
ボトルからコク、コク、コク、と酒精が行進する音が鳴り、じわじわとテンションが上がります。
「では」
「ではでは」
どちらからともなく乾杯し、十分香りを楽しんでからそっと一口目を含みます。
炭火にふうっ、と息を吹きかけると熾火が赤く輝きを増すような、そんな熱が口中に広がります。
揮発しながら香ばしく喉を灼いていくその後に、ふわあっ、とあの焚き火のにおいが立ち込めました。
「……うわあ…」
やっぱり最初に口をついて出るのはこれで、もう一口飲んでから、示し合わせたように互いのグラスを交換するのが常です。
同じお酒でこんなに雰囲気が違うのか、といつもびっくりするのですが、ストレートとロックではもう別物のように感じられます。
合間にぽりぽりとローストナッツを食べると、これがウイスキーの香ばしさとぴったり合って、無限にあとを引いてしまいそうです。
ウイスキーを飲むときは、なぜか二人ともいつものようにはあまりおしゃべりをしなくなります。
でも、なんだか無言のうちにも濃密なコミュニケーションをしているようで、ちょっぴり大人になったような面はゆい気持ちになってしまうのでした。
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