ピークを越えつつある桜が、風に吹かれて盛大な花吹雪を舞い上げた。
昼間の瀬乃神宮は夜とは打って変わって穏やかで、「bar 暦」もいまは「cafe 暦」の看板を出している。
先日と同じカウンターチェアに腰掛けたわたしの目の前で、由良さんがコーヒーをドリップしてくれている。
芳しくふくよかな香りは、花散る午後にぴったりな気がする。
あの悪夢のような夜の出来事は、正直いってとても現実とは思えない。
けれどわたしが目を覚ましたのは瀬乃神宮の社務所で、四方にしめ縄を張り巡らした座敷で、お医者さんと思しきお爺ちゃんが手当てをしてくれているところだった。
傍らには痛々しく包帯を巻かれた由良さんが、心配げにこちらを見下ろしていた。
「貴女がいなければ、結界は閉じられなかったわ」
彼女はそう言って、わたしを危険にさらしたことを詫びると深々と頭を下げた。
助けてもらったのはこちらなのに、わたしはなんと言っていいかわからずおろおろするばかりだった。
あのとき大鬼を斬り裂いた陵山古墳の王は、その力で再び結界を結んで異形たちの侵入を食い止めた。
王が応えたのは由良さんの祈りと、あとはわたしが夢中で鬼に向かっていった気持ちに対してなのだという。
その後あいかわらず「猿を見た」という生徒がちらほらいるけど、危険を感じた子は出ていない。
神使の猿たちは、ずっと子どもたちを怪異から守ってくれていたのだ。
「あかり先生の生徒さん、よかったわね」
由良さんがカップにコーヒーを注ぎながら、明るい声でそう言った。
いつの間にか「雑賀先生」から呼び名が変わって、少し仲良くなれた気がする。
日高さんはその後意識が戻り、もう間もなく退院できるとのことだ。
お見舞いに行ったわたしに、
「せんせえが助けてくれる夢みたんよ」
とはにかんだのを、きっと一生忘れないだろうと思う。
ドリップしたてのコーヒーをひと口含むと、春真っ盛りなのになぜか秋の光景が心に浮かぶ。
鮮紅や黄金に色づいた樹々の葉、冷たく澄んでゆく乾いた大気。
ふいに、古墳の王が振るった剣の光を思い出した。
「それで、ユラさん。お話ってなんでしょうか」
コーヒーに夢中になって忘れそうだったけど、折り入って話があるとのことで由良さんのカフェを訪ねたのだった。
「うん、そのことやねんけど……。あっ、言うてたら来やったわ」
テラスの外を見ると、駐車スペースにとんでもなく古そうな赤いミニがぽすんぽすん、と飛び込んでくるところだった。
ぼたこんっ、と不思議な音で車のドアが閉められ、すぐさまカリンコリン、とお店の扉が開けられた。
「いやあ、久々来たら迷ってもうたわあ。あっ、ぼくホットひとつなあ」
全体に自由きわまりないウェーブがかかった髪に、ひょろりとしたスーツ姿の男性。
歳の頃は……さっぱりわからない。
若そうに見えるけれど、ゆるゆるの髪の毛はみごとなロマンスグレーだ。
親しげに話しかけるのでよく知っている人なのかと思えば、由良さんはなんだかあからさまに嫌そうな、フクザツな顔をしている。
「やっ、雑賀あかり先生ですかあ?このたびはほんまにとえらいことやって。あ、ぼくこういう者ですう」
ニッコニコしながら、名刺を差し出してくる。
すっかり毒気を抜かれた思いで素直に受け取り、その文面に目を走らせた。
和歌山県教育委員会 特務文化遺産課
主任技師
刑部 佐門
と書いてある。
県教委……公務員…なの?
「雑賀せんせ、藪から棒で悪いんですけど。特務文化財保護……いや、長いなあ。単刀直入に、“対あやかしの文化財パトロール”、引き受けてくれませんやろかあ」
刑部と名乗った男は相変わらずニッコニコしたままで、カウンターの向こうの由良さんが「チッ」と舌打ちする音を立てた。
「………はい?」
なんのことやら分かるはずもないわたしは、それだけ言うのがやっとこさだった。
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