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【紀伊 零神宮のあやかし文化財レポート】第9章 中辺路の河童、ゴウラの伝説。天地の松と永遠の狛犬

小説
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下宮の狛犬が腐る頃

数瞬の睨み合いののち、あわいの黒い膜の向こうでチチッと鳥が鳴いた。

それを開始の合図に、先に動いたのは十代目だった。
まったく予備動作も見せず、直立の姿勢からゴウラの頭めがけて上段蹴りが唸りを上げた。

ゴウラは瞬間的に身を屈めてかわしたが、間髪入れずその胴に逆足で横蹴りを突き立てる十代目。
すんでのところで間合いを切ったゴウラに、さらに回転して蹴りを浴びせていく。

緋袴から白い足が露わになるのも意に介さず、息をもつかせぬ蹴撃で圧倒している。

ゴウラは両腕で胴をかばい、身を固めて防御の体勢をとっていたが、大振りの一撃がその頭を捉えようとした。

が、その瞬間にゴウラは身体を反転させながら十代目の脚を受け流すように担ぎ、そのまま蹴りの威力を利用して一本背負いに投げ落とした。

凄まじい勢いで地面に叩きつけられたかと思った十代目だったが、驚くべきことに自らさらに一回転しつつもう一方の足で着地して受け身をとった。

背負い投げの姿勢で俯いたゴウラの頭頂部へ、十代目は目にも留まらぬ速さで手刀を振り下ろす。

咄嗟に首を捻って辛くもそれをかわしたゴウラは、飛び退って十代目との間合いを切った。

「すごい……」

呼吸すら忘れて濃密な格闘戦に魅入られていたわたしは、やっとそれだけを呟いた。

あれ、でも、相撲って……蹴っていいんだっけ?

「あれはスモウのさらに古い形の、何でもありの格闘技」
「スマイ、と神話には書かれているわ」

わたしの疑問を察したのか、マロくんとコロちゃんが解説してくれる。

「歴代の由良たちがあやかしと戦うために修めた無陣流には」
「剣だけじゃなくってあらゆる武器術、そして素手の技も含まれていたの」
「いま十代目が遣っているのは、白打はくだという技。白打は柔術の別名ともいわれていて」
「無陣流のそれは、素手でも鎧武者を制するという“甲冑砕き”と呼ばれたの」

そうか。ゴウラはたしかに「スマイで勝負」と言った。
普通の相撲よりもさらに技の制限がなく、遠慮会釈のない本気の闘いを望んだということなのだろう。

しかし、それにしても2人とも……。

なんとまあ、楽しそうなこと!

己の身に宿した技のすべてをぶつけ合える相手に恵まれた歓びを、双方が思い切り謳歌しているかのようだ。

十代目がほんの刹那、河原石に足を妨げられた。
その機を逃さず、ゴウラは恐るべき速さで間合いを詰めて組み付いた。

ぎりぎりと拮抗するように見えたのも束の間、剛力で優るゴウラが徐々に十代目を押し始めた。
ユラさんの身体が、顔が、苦しそうに軋んでいる。

と、十代目はそのままの姿勢でゴウラを掴んだ両手を離し、上からのしかかるように背の甲羅に掌を当てた。

続けてもう一方の手をその上に重ね、苦しい表情からにやりと笑みをこぼした。

「……ゴウラさま。我が拳が甲冑砕きと呼ばれる由縁、その身できこし召せ!」

無陣流白打――“玉響たまゆら”!

ゴッ、と衝撃音が立ち、十代目が重ねた両の掌はゴウラの硬そうな甲羅にめり込んでいた。

〈――っぐうぅっ…!!〉

たまらずゴウラがうめき声を上げ、膝から崩折れそうになっている。いまの一撃で相当なダメージを受けたことが見てとれる。

「あれは鎧の上から内部の人体に」
「衝撃だけを伝える“重ね当て”」

精霊たちの説明になるほどと得心する。
たしかに、それぐらいの威力でなければあやかし達には通用しないのだろう。

と、膝をつきそうだったゴウラが踏み留まった。
強力な技を放って動きの止まった十代目の腰帯を掴み直す。

〈おおぉぉぉっ!!〉

そのまま担ぎ上げるように、ゴウラは後ろへ向けて倒れ込みながら十代目を投げ落とした。

死力を尽くして闘った二匹の獣は互いの頭を突き合わせるようなかっこうで、仰向けの見事な大の字となって伸びてしまった。

ものすごい勝負を目の当たりにし、放心したようになっていたわたしの横に、いつの間にか目を覚ました玉置さんが立っていた。

「……どえらいもん、見せてもろた」

玉置さんの視線の先で倒れている2人は、そのまま荒い息をついて動けずにいるようだ。
が、十代目がようやく口を開いた。

〈――はあっ、はあっ……。さすがは……近露のゴウラさま…。見事にやられ……ちゃいましたよ……。ごめん、当代。……あと、お願い……〉

ふうっ、と十代目の気配が消え、本来の人格が戻ったユラさんが苦痛に顔を歪めた。
あれだけの闘いの末に河原に叩きつけられたのだから、その痛みははかりしれないだろう。

「ゴウラさま、まいりましてございます……。御指南、衷心よりの謝意を……」
〈いや、待て〉

負けを認めたユラさんの言葉を、ゴウラは息を整えつつ遮った。

〈“我が願いに応えるならば”との条件での約だ。それは望外の形で果たされた。故に知る限りを答えよう。何なりと申すがいい〉

そうだ。ゴウラは勝負に勝てば、という条件を出したわけではなかった。やはり約束というものに厳格な面があるのだ。

「感謝します。ゴウラさま。では……、あやかしはなぜ人を襲うのでしょうや?」

互いに倒れた姿のまま、ユラさんがゴウラに尋ねている。それも、いきなりかなり根源的な問題をだ。
ふむ、とゴウラはしばし考え、やがて口を開いた。

〈そこに人がおるからだ〉
「それは……狩りのようなものですか?」
〈そういうあやかしもおる。が、霊力を宿さぬ獣どもとて同じではないか。山で出くわした熊が襲ってくる。人が食われることも、その逆もある。それと同じことだ〉
「では、あやかし達も人を恐れていると……?」
〈無論。そなたら人間ほどおそろしい生き物はおるまいよ。我とてそうだ。そのつるつるとした黄色い肌、頭にだけ伸びる毛、小刀で裂いたような目と口。すべてが恐ろしくてならんよ〉

語りながらもゴウラは調息し、ほどなく当初のような重々しい声を取り戻した。

〈それにな。そなたら人間は食う量をはるかに超えて魚を捕る。いずれ食うために牛や豚を囲って育てる。あまつさえ、飽きもせず同族同士で殺し合う。それは何故なのだ。我から逆に問いたい。何故だ、由良之丞…いや、女の人間〉

ゴウラからの問い返しに、ユラさんは大きく目を見開いた。
が、それはわたしも同じだ。隣の玉置さんも同様に、じっと耳を傾けている。

「……わかりません」

絞りだすような声で、ユラさんがようやくそれだけを答えた。
でもゴウラは目を細め、あたかも満足そうに笑みを浮かべたかのように見える。

〈そうであろうな。我とて同じよ。そこには善も悪もないのだろう。それがさがごうならば、言うても詮の無いこと。弱い生き物は滅び、強いものが残る。そしてそれは延々立場を変えて繰り返す。この天地が悠久である間はな〉

わたしたちは、ゴウラの話に聞き入っていた。
ユラさんがあやかし達と対話したいと言ったとき、正直なところ不可能ではないかと思っていた。
が、その思い込みは思い上がり以外の何ものでもなかった。
生物として、命の在り方として、目の前のゴウラはずっとずっと真理を究めた大先達ではないか。

〈されど、な。こうして互いにスマイの技を尽くして遊ぶという道もある。不可思議。まこと、不可思議と言わざるを得ぬ。これだから、この世は面白い。下宮の狛犬が腐る頃、また相まみえようぞ――〉

ゴウラはそう言うと静かに目を閉じ、河原の石に溶けるようにその姿を消していった。

あわいであった周囲はいつの間にか元の空間へと戻り、近露のゴウラは再度封印された。

後には仰向けに手足を投げ出したままのユラさんが、空を見上げて両の目からぽろぽろと涙を零していた。

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