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【紀伊 零神宮のあやかし文化財レポート】第3章 血縄の主の大鯰と、裏隅田一族の大宴会

小説
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紀ノ川の主と大膳大夫

そして、進み出てきた裏隅田一族代表のお爺ちゃんは、なんと堂々たるかみしも姿だ。

ユラさんたちに一礼すると、いざなうように川縁の方へと先導していく。
裏隅田の方々は自然と行列をつくり、隣合わせたお婆ちゃんに従ってわたしもそこに加わる。

先頭には露払いの方がしゃりん、しゃりん、と錫杖をつきながらゆったりと歩み、その後を二人の子どもが続いていく。

裃姿のお爺ちゃんの後にはユラさん、そしてコロちゃんとマロくんが寄り添い、そこには茶道の野点で使うような大きな朱塗りの傘が差しかけられている。

一行はほどなく血縄の淵を見下ろせる川崖の縁へと至り、そこには何もない白木の壇と、桟敷席のような茣蓙が敷き詰められていた。

整然と皆が着座したのを見届け、裃のお爺ちゃんは壇を前に一礼し、床几というのだろうか、小さな木組みのスツールのようなものに腰掛けた。

ユラさんたちはそこに向き直ると、すっと腰を落として蹲踞の姿勢となり、裃のお爺ちゃんは扇子を差し向けておもむろに声をかけた。

御包丁おんほうちょう、はじめそうらえ」

ユラさん・コロちゃん・マロくんは揃って、

うけたまわってそうろう

と返し、白木の壇へと歩を進めた。
その途中、ユラさんがちらりとわたしの方に視線を向けた。
やさしげでありながら妖艶ともいえる流し目に、いつもの彼女ではないことを直感する。

忌火いみび、灯し候え。浄水きよみずそそぎ候え」

朗々としたユラさんの声に二人の護法が、

「受けたもう」

と凛として応えた。
何もない白木の壇の上で手を動かし始めた3人の前に、やがてぼんやりと浮かび上がってきたのは大量の食材だ。

山の幸、海の幸、川の幸、あらゆるものを目には見えない厨で調理しているのだった。

すると、川崖の下の方から鬨の声が上がった。
見るといくつもの小舟が漕ぎ出され、そこには直垂を襷掛けにして折烏帽子をかぶった武士たちの姿があった。

中心のやや大きな舟には一際立派な身なりの武士が乗り組んでおり、わたしの心には「北条時頼」の名が自然と浮かんできた。

舟上の武士たちは、かつての隅田党の霊なのだろう。槍を持った者もいるが、手に手に棒で水面を叩き、時頼のために川漁をしているのだ。

紀ノ川に突如現れた武士団の御魂に気を取られていたが、気が付くとユラさんたちの周囲にも白い水干姿の男たちが現れ、懸命に膳を調えているところだった。

いつの間にか川縁にはおびただしい数の武士たちが居並び、彼らの前に次々と膳が運ばれ、麗しい女官たちが銚子で酒を注いでいる。

川では漁もたけなわとなり、魚を追い込んだ網が次々と引き上げられては水飛沫と銀鱗が舞っている。

と、そこへ上流の水面が急激に盛り上がっていき、大きな波が立って小舟を揺らした。

見る間に水位は上昇して、波を割って浮上してきたのはクジラほどもあろうかという巨大な生き物。

紀ノ川の主の大鯰だ。

幾艘かの小舟が転覆し、主が開けた大口に何人もが飲み込まれていく。

川岸から、舟上から、武士たちの喚声が怒涛のごとく湧き上がった。

大鯰が尾を一振りして身をよじると、それだけで川は荒天の波濤に変じた。

主がその胸鰭を水面に叩き付けると、衝撃で何人もの武士が舟から投げ出される。

おぉぉぉぉっ、と地響きのようなどよめきが起こり、川縁に居並んだ隅田党の御魂たちがすっかり興奮している。

川面を縦横に暴れまわる大鯰に、残った武士たちが舟上から槍を突き出し、あるいは次々に銛を打ち込む。

ますます荒れ狂う主の前に、やがて一人の益荒男が立ち塞がり長槍を構えた。
鎌倉幕府第五代執権、北条時頼――。

鯰の上流に回り込んだ舟は流れの勢いを利用し、信じられない速度で主との間合いを詰めていく。
時頼は槍を大きく肩に担ぎ、引き絞り、やがて舟の速度に乗せて力の限り大鯰へと打ち込んだ。

武士たちのどよめきは最高潮に達し、銘々が太刀の柄を打ち鳴らして神と人との力競べを讃えている。

紀ノ川の主たる大鯰は動きを止め、そのままゆっくりと下流へと泳ぎ去っていった。
水面には美しい鮮紅色の血がたゆたい、まるで一筋の縄であるかのように川を彩った。

「だいじょうぶやで。神さんやさかい、ほんまは痛くも痒くもないんえ。今年もようほたえはったなあ」

わたしの隣のお婆ちゃんが、そう言って拍手をしている。「ほたえる」は、たしか暴れるとか騒ぐとかいう意味だ。
血を流しているのでびっくりしてしまったが、神霊たる大鯰に肉体的なダメージはないという。

その荒ぶる魂を解放して力の限り戦った歓びの記憶を、何度も何度も再現しているのだそうだ。

下流へと去っていく大鯰に向けて、ユラさんが進み出た。
手にはなにか特別なお膳を掲げており、神霊への手向けであることが感じられた。

〈至心発願するところの、大膳大夫・橘由良たちばなのゆら。当道場において申してもうさく――〉

朗々と響く艶のある声は、わたしの知っているユラさんのものではなかった。やはり、以前に六代目と呼ばれた人格を解き放ったときと同じなのだ。
大膳大夫といえば、朝廷で饗応や食料調達などを司る機関の長官ではないか。

ゆかしい唱えごとの声に、いつしか川縁に居並ぶ隅田党の御魂も、流れゆく大鯰に向けて頭を垂れ、徐々にその姿を消していった。

後には裏隅田さんの一族が座礼の姿勢をとっており、次々に立ち上がると左右に分かれて、ユラさんたちが引き上げるための花道をつくった。

儀式を終え、ゆっくりと元来た道を戻るユラさんと二人の護法。
ふいに、ユラさんがわたしの元へすっと身を寄せ、

〈当代をよろしう。あかり嬢〉

と耳元でささやいた。
大膳大夫と名乗ったその人は、びっくりするわたしに向けて片目を瞑ってみせ、悠々とした足取りで屋敷のほうへと姿を消していった。

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