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【紀伊 零神宮のあやかし文化財レポート】第10章 臨海学校と真白良媛の悲恋。蘇る西牟婁の牛鬼たち

小説
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八塩折やしおりの酒

その女性は、まさしく一心不乱といった様子で食べ、飲んだ。
時間にしてはほんとうにごく短い間だったと思う。
お皿とグラスが空になるとその人は見守っていたユラさんを見上げ、そしてすうっと立ちあがると再び夜の闇へと戻っていってしまった。

「……ユラさん、いまの人は……」
「そうやね。でも、何の“あやかしさん”かはわかれへんだなあ」

あやかしの中には人の姿をとるものも多いけど、こうして飢えや渇きに身を焦がすこともある。
ユラさんのお祖父さん、ゼロ神宮の宮司だった宋月さんはそうしたあやかしには必ず何がしかの食べ物や飲み物を差し出したという。

「絶対したらあかんっていう人もおるんよ。けど、私はおじいちゃんのやり方を継ぐつもり。あやかしさんにはお酒好きも多いし」

そう言って笑ったユラさんが、さっきから“あやかしさん”と呼んでいることに遅れて気付いた。
かつては”あやかし狩り”、そして今は”結界守”と呼ばれるユラさん達の務め。
そこには確実な時代の流れと心境の変化があるのだ。
人との関係もまた、もしかすると変わろうとしているのだろうか。

「さて。あの子らもデート終わったかな。あかり先生も戻らなあかんよね。その前にもう一杯」

ユラさんはシェーカーにオレンジ・レモン・パイナップルのジュースを等分に入れ、氷とともにシェークした。
ソーサー型のシャンパングラスに注がれたそのカクテルは、淡いオレンジ色がいかにもやさしい。

「どうぞ。“シンデレラ”です」

フルーツジュースだけで作られたそれは甘酸っぱくジューシーで、冴えた神経をなだめてくれるかのようだった。

「もうすぐ0時。魔法がとける前に、お気をつけてお帰りを」

ユラさんのイケメンな台詞にぽわーんとなりながら、わたしは宿舎へと戻っていった。
すでに浜辺に人影はなく、生徒たちもこっそり帰還したみたいだ。
ノンアルコールのカクテルなのにすっかり酔ったようになったわたしは、消灯を確認するとあっという間に眠りに落ちてしまった。

翌日、南下してすさみ町へと入った歴史クラブの生徒たちから一時分かれ、わたしはユラさんと合流して再地鎮の場へと向かった。

国道38号線から山中へと分け入った、広瀬谷というところにある”琴の滝”。
吸い込まれそうになるような美しい淵になっているけれど、ここには恐ろしいあやかしの伝説があった。

その妖異の名は“牛鬼うしおに”。

文字通り牛の頭をもち、伝承によっては身体は蜘蛛のようだったり鬼のようだったりといわれるが、この地のそれは猫のようであるため足音がしないとも伝えられている。

牛鬼は人を喰らうというけど、それに影を舐められると数日のうちに呪いで死に至るともいわれている。

そんな獰猛なあやかしが眠る場所へと、わたしたちはやってきたのだ。

上戸川こどがわ上流にかかる広瀬谷。

登り口から十を越す滝を経て、その奥に琴の滝はある。

ここは天正13(1585)年の秀吉紀州攻めで敗退した西牟婁の在地武将、山本氏の一門が住んだ隠れ谷とも伝わっている。
道の途中には「抜け穴」や「合戦河原」などの文字が見え、そうした故事を感じさせてくれる。

登り口から、もうすでに水の匂いがしていた。
さわさわと流れる川音が心地よく、ひんやりと肌にまとわりつく山の湿度は、ここが異界との狭間であることを示すかのようだ。

その証拠にバックパックの中でまるくなっていたコロちゃんとマロくんが、最初からわたしの肩の上に乗っている。
ユラさんに続いて苔むした細道を登っていくと、ほどなく目指す琴の滝が見えてきた。

落差20mほどの白い瀑布、その下に穿たれた青く美しい淵。手前の平坦な岩場には石造りの祠が祀られており、なんとも雰囲気のある場所だ。

この淵に棲むという牛鬼は、かつては人の命を奪うおそろしいあやかしとして知られていた。
影を舐められた者が数日のうちに熱病で死ぬなど、災厄をもたらす存在としての伝承が残っている。

けれど牛鬼はとても酒好きな妖怪でもあることが判明し、村人たちが酒を供えることで以降は人を襲うことがなくなったという。
以来、正月にはここに酒を供え、牛鬼と人は共生してきたのだとも。

その言い伝えに則って、この場の再地鎮の祭式は歴代由良のうち“大膳大夫”が執行した。
紀ノ川の大鯰を裏隅田一族とともに供養した、朝廷での饗応を司ったあの人だ。

久しぶりに人の姿をとったコロちゃんマロくんと揃って狩衣姿となったユラさんは、大膳大夫の魂を下ろして一献の酒をととのえた。

すでに出来上がっていたものを作法に則って供したものなので、どうやって造られたものかわたしにはわからない。
けれども祝詞のなかに「ヤシオリ」という言葉が出てきたことから、もしかすると神話に登場する八岐大蛇を眠らせた“八塩折やしおりの酒”に類するものかもしれない。

大膳大夫に導かれるまま、わたしは土器かわらけに注がれた一坏ひとつきの酒をそっと淵に浮かべた。
清冽な水の匂いのうちに、キャラメルを思わせる甘いアルコールの香りが立ち上る。

不思議にも盃は流れに逆らってふわふわと淵の中央へ向かって漂い、中程でとぷりと水中へと引き込まれた。

大膳大夫の魂を宿したユラさん、そしてコロちゃんマロくんが拝礼し、琴の滝はそれまでと変わらぬ水音で流れ続けている。

おそろしい妖異が姿を現すものと身構えていたわたしは、あまりの呆気なさに緊張の糸が根元から切れてしまった。

が、事件は下山してすぐ、生徒たちと合流する直前に起きたのだった。

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