すごく久しぶりに風邪をひいてしまった。
仕事にも差し支えるし、しんどいのも嫌だし、なにより伊緒さんにうつしたりしたら大変なので細心の注意を払っていたのに。
金曜の夕方あたりから不気味な悪寒が背中を這い登り、早めに帰宅したものの伊緒さんの顔を見て安心したのか、どっと具合が悪くなった。
咳はないけど頭にぼんわりとモヤがかかったような感じがして、体温計には「38℃」と表示されている。
すごい高熱、というわけではないけれど熱に弱いぼくは、お布団にもぐりこむなり吸いこまれるようにして眠りに落ちていった。
熱があるときには、決まって変な夢を見てしまう。
夢の中でぼくは子どもの姿で、季節は夏だった。
古い日本家屋の座敷でぼくは寝ており、レトロな蚊帳が吊られている。
縁側からは外の景色がよく見えて、ひまわりがたくさん咲いてセミが鳴いているようだ。
ぼくは熱があるから、せっかくの週末なのに伊緒さんと遊べないんだ、と悲しい気持ちでいっぱいだ。
ふいに、外に人影が見えた。
ぼくと同じように子どもの姿をしているけど、間違いなく伊緒さんだ。
白いワンピースに長い黒髪が揺れて、なぜか頭には猫みたいな耳が生えている。
後姿しか見えない伊緒さんは、誰か知らない男の人に手を引かれてどんどん向こうへ遠ざかっていってしまう。
引き止めなきゃ、引き止めなきゃ、と思って「伊緒さん!」と、叫ぼうとするのだけど声が出ない。
身体を起こそうにも布団に縫い付けられたように微動だにせず、後から後から涙がこぼれてしかたがなかった。
ふいに、額にひんやりとしたものが乗せられた感触で目が覚めた。
次いで頬にも、冷たく柔らかいもので包まれる感じがあり、薄っすらと目を開けた。
「うなされてたね。でも、ちょっと熱が下がったみたい」
枕元には伊緒さんがいて、ぼくの頬に手を当ててくれていた。
額には濡れタオルが乗っており、看病してくれていたのだ。
「おかゆとか、雑炊みたいなものだったら食べられそう?」
ぼくの顔をのぞき込んで伊緒さんがそう聞いてくれる。
彼女の目に、いかにも風邪っぴきな姿でこくん、と頷くぼくが映っている。
「よかった。すぐできるから待っててね」
にっこり笑って枕元を立つ伊緒さんの後ろ姿を目で追って、「果報者」という言葉が頭に浮かんできた。
そういえば、こんな風に伏せって誰かに看病してもらうなんて、いつ以来だろうか。
熱でぼんやりした頭ながら、しんみりと嬉しい。
「お待たせ。起きられるかな?」
そう言って伊緒さんが持ってきてくれたのは、以前に小鍋立てで使った小さな一人鍋だ。
蓋を取ると、ふわあっ、とお米の煮える香りが立ちのぼり、思わず食欲を覚えた。
「味は薄めにしたから、足りなかったらポン酢とかかけるね」
伊緒さんが匙で鍋の中身をすっすっ、とかき回し、ほんの少しすくって、
「ふーう、ふーっ」
と、息をかけて冷ましてくれる。
そのまま「はい、あーん」とぼくの口元に匙を運んでくれた。
さすがにそこまで甘やかしては、と思いつつも結局甘えて、ヒナ鳥のようにぱかっと口を開けた。
熱のせいで舌がだいぶ鈍くなっているけど、それでもさらりとしたお米の甘みと、なめらかな口当たりを感じることができた。
お鍋の中身をよく見てみると、お米だけではなく、細かく砕いたとうふがたくさん入っているようだ。
風邪引きの身にはすごく嬉しい料理だ。
「おいしいです」
声がかすれてしまったけど、ちゃんと言えた。
「そう、よかった」
伊緒さんがにっこり笑い、またふーふー、と冷まして食べさせてくれる。
そんなにたくさんはお腹に入らなかったけど、食べたら身体があったまってそのまますとん、と眠りに落ちてしまった。
伊緒さんが看病してくれて安心したのか、今度は変な夢は見なかった。
次に目覚めると、すでに朝になっていた。
随分と寝ていたようだ。まだ少し頭がぼわん、としているけど、熱はあらかた引いたようだった。
「晃くん、具合はどう?」
台所から出てきた伊緒さんが、心配そうにぼくの額に手を当てて、熱を気にしてくれる。
「ちょっとフラフラするけど、もう大丈夫です」
ぼくが寝ていた枕元には、水を張った洗面器やタオル、体温計や冷感シートなどが散らばり、伊緒さんがずっと看病してくれていた跡がみてとれた。
ありがとう。ずっと看ていてくれたんですね。
そんなお礼の言葉を口にするより先に、ぼくのお腹が盛大に音を鳴らした。
途端に空腹に気付く。
伊緒さんが「もう大丈夫ね!」と笑いながら、「昨日の残りだけど」といいつつご飯を用意してくれた。
ゆうべ食べさせてくれた、とうふ入りの雑炊だ。
ただし昨日より濃い出汁で味を付け直し、玉子でとじてある。
今回こそは自分で冷ましながら口に含むと、ふんわりとショウガの風味が広がった。
とっても身体が温まりそうだ。
「ちょっと季節はずれだけど」
と言いながら、伊緒さんがきゅうりを塩こんぶで和えたものを出してくれる。
しゃっきりとしたきゅうりの冷たさと、昆布の塩気が実に心地よく、ぼくは夢中で匙を口に運んだ。
お腹の底から力が湧いてくるようだ。
ニコニコしながらその様子を見ていた伊緒さんが、
「また、食べさせてあげよっか」
と、いたずらっぽく笑った。
ぼくの身体がかっと熱くなったのは、もちろん料理の効果だけではないだろう。
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