伊緒さんと居酒屋にきている。
ふたりで飲みに出掛ける、ということは滅多にないのでぼくは少々緊張している。
「曲がりなりにも夫婦じゃろうがい、寝ぼけたこと言うちょったらシゴウしゃげたるぞ」
と、急に広島方面のおじさんが出てきて怒られるという幻覚にも悩まされる。
そうは言っても仕方ないではないか。
そもそもお酒に弱いぼくは、どっかのお店で飲むという習慣がない。
大人の階段を踏み外してはこじらせてきたぼくにとっては、居酒屋というのはいまだに伏魔殿なのだ。
しかも妻とはいえ、綺麗なお姉さんと一対一でお酒を飲むというシチュエーションに、免疫などあろうはずもない。
あ、もう「妻」という字面もはずかしい。
え?おかしい?
いやいや、そりゃお家で一緒に缶ビール開けるくらいのことはしますよ。
でもねえ、周りにたくさん人がいる中で、お店で飲むっていうのがまだちょっと落ち着かないんですよねえ。
実を言うとまだまだ伊緒さんに対して、自分の「妻」だという確かな実感がわかない。
さん付けで呼ぶのもそう、敬語が抜けないのもそう、それが少々壁のようになって彼女がよそよそしく感じることがあるのでは、とは思っている。
でもだからといって、夫婦や恋人なら呼び捨てにしたらいいのか、「なあ、おまえ」とか言えばいいのか、というのは別問題だ。
なんとなれば、すごく恥ずかしいのだ。
ぼくにとって伊緒さんは「伊緒さん」であり、ちょっと結婚してもらったくらいで自分の女になったー、みたいに振る舞うことに抵抗がある。
なんかおかしなこと言ってるでしょうか……。
伊緒さんと連れ立ってひょい、と入ったのはごくありふれたチェーン店の居酒屋だった。
海鮮が一応の目玉だけど、いろんな料理が脈絡なく楽しげにラインナップされているという、正しい居酒屋だ。
二人がけの小さな席に向かい合って落ち着くと、どちらからともなく「にひひー」と笑ってしまう。
やっぱりちょっと恥ずかしい。
「さあさあ!いやはや!」
「まあまあまあ!」
などと変なテンションの上げ方をしながら、とりあえずすぐに持ってきてもらえそうなおつまみをとんとんとーん、と選んでいく。
えだ豆
きゅうりの一本漬け
冷やっこ
たこわさ
フライドポテト(小)
そうしておいて、だし巻きたまごとか焼き鳥盛り合わせとか、時間差でちょうどいいタイミングで出してくれそうなものも頼んでおく。
飲みものはあまりお酒に強くないぼくに配慮してくれて、まずはビールの中瓶をふたりで分けることにした。
肴はその都度おなか具合とノリで追加しようねー、などと言っている間にもうはやえだ豆とビールが運ばれてきた。
店員さんが目の前でしゅぽんっ、と栓を抜いてくれる。
あ、それちょっとやりたかったかも。
伊緒さんがぼくのコップに注いでくれて、ぼくも彼女に注ぎ返す。
泡が立ちすぎてしまったけど、なんだか彼女も嬉しそうだ。
元気よくカンパイして、グラスに口をつける。
伊緒さんは白いのどを反らして、
「んくっ、んくっ、んくっ、っぷあぁー」
と、とってもいい飲みっぷりだ。
唇の上には泡のおヒゲがついて、すごくかわいい。
北国の女性がみんなそうなのかは分からないけれど、実は伊緒さんはお酒に強い。
お家だとすぐにほっぺたをピンク色にしてほろ酔い加減になるのに、仕事の関係などでのお酒の席ではどんなに飲んでも顔色ひとつ変わったことがない。
彼女いわく「気合」だそうだ。
一杯目のビールできゃいきゃい楽しんでいる間にも、次々とおつまみを運んできてくれる。
「えだ豆おいしいです」
「一本漬けってロマンあるわよね」
「あ!冷やっこに明太子がのってる!いい冷やっこだ」
「たこわさ、って日本酒ほしくなっちゃうよねえ」
「フライドポテトはこう、細長いのがいいですねえ」
等々、もう実に他愛もないことをいいながら飲んで食べて、すごい楽しい。
二杯目は伊緒さんがハイボール、ぼくは麦焼酎のロックに切り替えてちびちびやることにする。
そうこうしているうちに、だし巻き玉子と焼き鳥盛り合わせがほぼ同時に運ばれてきた。
「串、はずしましょうか」
「やだ。そのままかじりたい」
実を言うと伊緒さんの意見に賛成だ。
みんなで串ものをとると、できるだけ均等にいきわたるように串から外すことが多いけれど、本当はそのままかぶりつくのがおいしいと思う。
「一口ずつ交替でかじりましょう!あ、でもモモねぎだとどっちかねぎばっかりになっちゃうね!」
自分で言ってツボにはまった伊緒さんがころころと笑い、とっても上機嫌だ。
だし巻き玉子も熱いうちに大根おろしをちょん、とのせてほおばる。
伊緒さんがいつも作ってくれるものとはもちろん違って、おかずではなくておつまみとしてのインパクト十分だ。
いつの間にか緊張もすっかりほぐれ、たいして飲んでもいないけど安心してほろほろと酔いが回ってきてしまう。
伊緒さんとしゃべっているのはこないだ読んだマンガのあらすじとか、これから封切りする映画のこととか、マンボウのいる大きな水族館のこととか、とりとめのないことばかりだ。
でも、周りの喧騒に声が掻き消されないように顔を寄せ合うようにしてしゃべっていると、このまったりと豊かに流れる時間が愛おしくなってくる。
話の切れ目に、小さなお化粧ポーチを手に伊緒さんが席を立った。
後姿を目端で見送って、くぴっと麦焼酎を口に含む。
氷がとけてきて味わいが移ろう様子を、初めておいしいと思った。
改めて周囲を見回してみると、本当にいろんな人たちがお酒を楽しんでいる。
学生とおぼしき若い人たちのグループ、会社の仲間という感じの一団、それに夫婦か恋人に見える熟年の二人連れもけっこう目立つ。
ぼくももっと年をとったら、伊緒さんともっと気軽に飲みに行けるようになるのだろうか。
その頃には、彼女をさん付けでは呼ばなかったり、自然に「おまえ」と呼んだりしているだろうか。
そんなことをつらつら思っていると、なんだか急激に眠くなってきた。
周囲の喧騒も遠のいて、夢うつつのいい気分だ。
うつら、うつら、と半目をあけたまま舟を漕いでいると、向かいの席にすっと人が座る気配がした。
伊緒さんが戻ったと思って目を上げると、そこには着物姿の上品な老婦人が腰掛けていた。
「あなた」
静かに語りかける声だったけど、どちらかというと怒っているような感じだ。
ぼくが何か怒られるようなことを……。
「また私をほったらかして居眠りして」
老婦人はそう言ってぼくの目の前のお猪口を取り上げ、くいっ、と一息に中身を干してしまった。
反らしたのどのその白さを、ぼくはたしかに知っている気がした。
「お若い頃は飲み方もかわいらしかったですのに。ほんのひと口ふた口でほろ酔いになられて。そうそう、ずっと昔、一緒になったばかりの頃にふたりで居酒屋さんに行ったわね。えだ豆とかたこわさとか頼んで、わたしは串焼きの串をはずしたくなくって」
「そんな昔のことをよく覚えているね」
ああ、そんなことがあったなあ、と思い出す。
楽しかった新婚の頃のこと。
むろん、いまも楽しい。
「あの時もわたしが席を立ったちょっとの間に、あなたは居眠りしてらして。その後酔い覚ましに鮭のお茶漬けをふたりで食べたわね」
目の前の老婦人はニコニコとして、嬉しそうに思い出を語っている。
「今日もあの時みたいに酔っておいでのようですから、お茶漬けを頼みましょうか。お店の方を呼んでくるわね」
そう言って、すいっ、と席を立ってゆく。
待ってくれ。お茶漬けは後でいいからもう少し話を……。
「いお!」
そう声をかけた瞬間、はっと目が覚めた。
賑やかな居酒屋の喧騒が蘇って、目をしばたたく。
夢、だったのか。
「晃くん、だいじょうぶ?酔っちゃったね」
席に戻ってきた伊緒さんが、そう言ってお冷やのグラスを手渡してくれる。
「酔い覚ましになにかご飯ものを頼みましょうか。えーっと・・・、鮭茶漬けなんてどうかしら」
にっこり笑った伊緒さんの顔が、さっきの夢の婦人とはっきり重なった。
そっか。
そうなのか。
ぼくはなんともいえず愉快な気持ちで、もう少しの間は彼女を「伊緒さん」と呼ぼうと思うのだった。
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