伊緒さんも僕もお米が大好きなので、ふだんの主食はほとんどご飯だ。
でも、ふたりで寝坊できるお休みの朝なんかは、無性にパンが食べたくなってしまう。
トーストの焼き加減は、伊緒さんはほんのりと。僕はこんがりと。
トースターの前でじぃーっと目を光らせて、ベストなタイミングで取り出すのは僕の役目。
あとはその時の気分でコーヒーか紅茶を選ぶのだけど、伊緒さんはどちらかというと紅茶党で、僕はコーヒー党だ。
今朝は珍しく伊緒さんがコーヒーを所望したので、僕がドリップを買ってでた。
コーヒーの淹れ方は、学生時代によく通った喫茶店のマスターに教えてもらってちょっと自信がある。
そして伊緒さんが、いつものようにこう聞いてくれるのだ。
「晃くん、たまごは目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちがいい?」
たったの二択なのだけど、これに迷うのがとても楽しい。
でも一応悩んではみるものの、やっぱり、
「スクランブルエッグで!」
とお願いしてしまうのだ。
一人暮らしのとき、卵料理といえばスクランブルエッグ一択だった。
卵をざっとときほぐして、熱したフライパンに流し込むだけ。あとは適当にかきまぜておけばすぐできあがりだ。
そんな簡単なものだと思っていた。
けど。
「伊緒さん、また見学していいですか」
僕は伊緒さんがスクランブルエッグをつくるときの魔法のような手際を見るのが好きで、必ずこうしてお願いするのだ。
まじまじ見られるとなんだか照れるみたいで、ちょっと恥ずかしがるのだけどそれがまたかわいい。
フライパンはすでに熱せられ、中の油が溶けるようにして鍋肌に広がっていく。
立ち上るフルーツのような香りは、オリーブオイルのものだ。
伊緒さんがボウルに割り入れた卵を菜箸でほぐしながら、フライパンの火加減をじっと見極めている。
油を均一になじませて、軽く煙が立ち始めた頃を見計らって溶き卵を流し込む。
じょわあっ、と威勢のいい音を立て、フライパンに触れた部分の卵が一瞬にして焼け、ところどころ大きな気泡が立ってきた。
ふわっ、ふわっ、と伊緒さんが菜箸をあやつって卵をかきまぜ、まだ生の部分を次々に熱い鍋肌に触れさせていく。
最後にフライパンごとくるるん、と卵全体をひっくり返すようにして回すと、そのままお皿に移し替える。
この間、多分15秒くらいだと思う。
とにかくあっという間だ。
これならコーヒーを淹れて、パンの焼きあがりを待ってからでも十分に間に合ってしまう。
伊緒さんがつくってくれるスクランブルエッグは、しっとりとレアな食感でありながら、口の中ではらりはらりと層状にほぐれていく絶妙な焼き加減なのだ。
しかもふんわり・とろりとやわらかく、僕はどうしたって真似ができない。
それに、伊緒さんが焼くとフライパンには一片たりとも卵がこびりつかず、つるんとして後かたづけも楽チンだ。
シンプル極まりない卵料理なのに、こうも違うのはなぜなんだろう。
アツアツをパンにのせて、今日もおいしくいただきながら、僕は伊緒さんにこう切り出した。
「リチャード・バックさんという作家を知ってますか?」
「『かもめのジョナサン』の?」
「はい。その方の作品に『フェレット物語』というシリーズがあるんですが」
僕は今度はスクランブルエッグをパンにはのせず、スプーンですくってそのまま口に運んだ。
とろん、ぷるん、と明るく弾む食感に、思わず頬が緩んでしまう。
『フェレット物語』は、様々な職業に従事する擬人化されたフェレットたちが出てくる愛くるしい作品だが、あまりにも意外でスピリチュアルな結末に圧倒されたため、深く記憶に残っている。
そこに、一流シェフのフェレットが登場するのだ。
彼は地位も名誉も手にするのだが、セレブたちばかりを相手に料理をする毎日に疑問を抱き、店を閉めてしまう。
そして、その世界で著名な酪農家フェレットの牧場で働くべく、自分を売り込みに行くのだ。
「それで、彼は牧場主の目の前でオムレツをつくってみせるんです」
直接つくる場面があるわけではないのだけど、すでにコックさんがいるのにあえて料理人として雇ってもらうために、もっともシンプルかつ技量が一目瞭然な料理で勝負をかけるのだった。
僕はその場面が大好きで、伊緒さんのスクランブルエッグをいただくたびに思い出してしまうのだ。
「つくる人によってここまで違うというのも、すごいことですよね。伊緒さんはスクランブルエッグではどんなことに気をつけてるんですか?」
「そうねえ・・・」
伊緒さんが口元にひとさし指を当てて、虚空とにらめっこしながら教えてくれる。
「わたしが気をつけてるのは、まずはたまごを常温にもどしておくこと。冷たいまんまだと、焼いたときに一気に温度が下がってふっくらしないの。それとフライパンをとにかくよーく熱することかなあ。できるだけ熱くして、じゃあーっとたまごを流したら15秒くらいで焼けちゃうから。・・・あ! あとそれと」
ぽん、と手を打って伊緒さんはテーブルの上の見慣れた調味料を指差した。
「これ。マヨネーズをちょっぴり入れるの」
スクランブルエッグにマヨネーズ? 意外な隠し味に僕が面白い顔にでもなったのか、伊緒さんがくすっと笑いながら続けた。
「そう。マヨネーズの油分がたまごをふんわりと仕上げてくれるの。天ぷらの衣なんかにもマヨを入れるとさくさくになるのよ。入れすぎちゃうとカロリーが気になるけど、ほどほどなら大丈夫」
たっぷり2人前のスクランブルエッグをつくるのに卵が3つとして、大さじいっぱいくらいのマヨネーズを混ぜ込むのだという。
ミルクや生クリームでもおいしいが、水っぽくなったりくどくなったりしないようさじ加減が難しいとのことだ。
そうして準備した卵液を高温のフライパンに流し込んでいたのか。
それで、鍋肌に卵がくっつかなかったわけだ。
「すごくおいしいです」
「そう。よかった」
いつものほのぼのしたやりとりの中、今度は伊緒さんに教わった通りに僕もつくってみようと思った。
コーヒーとパンに加えて、僕の係りがちょっとずつ増えていくと楽しいかな。
ぼんやりそんなことを考えていると、トーストにのせたスクランブルエッグがとろろん、とずり落ちてきた。
慌ててぱくっとそれを口でキャッチした僕を見て、伊緒さんがころころと笑った。
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