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第四十一椀 脇役じゃないよ「香の物」。真のおかずにしてご飯の盟友です

小説
kyooさんによる写真ACからの写真
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 小さな小さなお皿に、ちんまりと盛られて出てくるお漬物。
 定食のお膳にも必ず付いているけど、ある種のお料理とふさわしいペアを組んで登場することもしばしばだ。
 お蕎麦には野沢菜漬け、うなぎには奈良漬け、海苔巻きには生姜の甘酢漬けなんかがぴったりだし、カレーにらっきょうや福神漬けも範疇に入るだろう。
 そんなお漬物のことを、「香の物」というお洒落な名前で呼ぶことはよく知られている。
「お新香」とか「おこうこ」なんかもこれに由来する呼び方だそうだ。
 なんで「香」とつくのかなあ、お漬物の香りのことかなあ、と漠然と思っていたのだけど、つい最近その意味を知った。
 平安時代、お香を使う文化が発達してその香りを嗅ぎ分ける「聞香(ぶんこう·もんこう)」が必要とされた。
 幾種類もの香りを連続で鑑定すると嗅覚が疲れてくるため、合間ににおい消しの効果がある大根を口にして、リフレッシュをはかったそうだ。
 でも、当時は旬の時期しか生のものは手に入らない。
 そこで大根をぬか漬けにして保存し、一年中いつでも聞香に使えるようにしたというわけだ。
 それで大根漬けが「香の物」と呼ばれるようになり、やがて漬物全般の雅称になったそうだ。
 なるほどなるほど。
 伊緒さんの影響で、だいぶんと幕末史以外にも興味が出てきたぞ。
 さてさて、そんな香の物だけど、じつにさまざまな種類があってとても楽しい。
 王道のぬか漬け、コクのある味噌漬け、さっぱりした浅漬けに、香り高い奈良漬け。
 甘酢や梅酢にくぐらせたものや、酢醤油なんかの調味液に漬けたものも立派な香の物だ。
 色も鮮やかでかわいらしく、保存食なのに季節を感じることもできるという、とっても素敵な古来の知恵だと思う。
 と、こんなに熱く語ってはいるけれど、じつは香の物を本当に「おいしい」と思ったのは結婚してからのことだ。
 一人暮らしをしていた頃は、お漬物が出てきてもほとんど箸をつけることはなかった。
 定食にはまばゆい黄色の大根漬けが、コンビニのお弁当には鮮烈な赤紫のしば漬けが、お約束のように添えられていた。
 漬物が嫌いなのかと問われたら、好きじゃないと答えていたと思う。
 食事そのものは細やかではなかったけれど、べったりと甘い人工的な味になんとなく抵抗感があったのだ。
 でも、伊緒さんと結婚して、そんな先入観が一変してしまった。
 彼女の手料理を毎日食べさせてもらうようになって、驚いたのは手際や味ばかりではない。
 和食のときは必ず、きちんと「香の物」を添えてくれるのだ。
 さっぱりした浅漬けの類が多く、そのバリエーションの豊かなことに目を見張った。
 きゅうりを薄切りにして塩昆布で軽く漬ける、大根をさいの目にして甘酢にくぐらせる、乱切りのなすを塩でもんで梅肉と和える、小かぶに昆布茶をもみこんで柚子を散らす……等々。  
 たくさん供するものではないけれど見た目にも華やかで、すごく存在感のある一品だと思う。
 そんなことにものすごく感動したぼくは、毎食香の物を用意してくれることにもお礼を言ったことがある。
 でも伊緒さんは、
「??いいえ、必需品ですものね?」
 と、きょとんとして笑ったものだった。
 彼女のなかでは、ご飯にお味噌汁というセットに含まれる不可欠なものだったのだ。
 よく、「最初に漬物を食べるのはマナー違反!」などといわれる。
 これはなぜかというと実は重大な意味が込められていて、香の物·漬物とはすなわち「真のご飯のおかず」であるためだ。
 会席のお料理だと一品ずつが順番に供されて最後に「食事」、つまりご飯と汁物と香の物で締めくくられる。
「一汁一菜」という言葉がよく聞かれるが、香の物を一菜と考えるこの組成こそが、もっとも侘びた食事の形とも言われているようだ。
 つまり、普通の食事でも最初に香の物に箸をつけるというのは、
「もう辛抱たまらんくらいハラ減ってまんねや!ようけおかずあるけど、いきなし本丸から攻めて白飯かっこんだろやないかい」
 という意味になるため、はしたないことだとされているのだ。
 いやはや、なんとも奥ゆかしいお話です。
 ちなみに、いわゆる会席ではなくて古式の茶懐石では最初にご飯と味噌汁、そして「向付(むこうづけ)」というおかずが供される。
 向付はお造りとか膾(なます)とかの、あらかじめ味付けが施された生のお魚料理であることが多いという。
 この時、作法として最初に箸をつけるのは「ご飯」なのだそうだ。
 ぼくはてっきり、最初に汁物に口をつけるものだと思い込んでいた。
 もちろん、普段の食事でそうそう言われることはないのだろうけど、そんなことを知ってからとりあえずは最初に香の物に箸をのばすのだけは気を付けることにしている。
 あくまで僕のイメージなのだけど、東北の人はとってもお漬物が好きなような気がする。
 雪に閉ざされる時期を乗り切る保存食という意味もあるだろうし、濃いめの味付けも厳寒に耐えるよう身体が欲してきた結果とも言えるのだろう。
 伊緒さんもやっぱりお漬物は大好きで、彼女がぱりぱりと幸せそうに大根漬けなぞ咀嚼しているのを見ると、ものすごく美味しそうに見えてしまう。
 そんな様子につられて、ぼくもいつの間にかお漬物が好きになっていたのだ。
 伊緒さんがいちばん好きな香の物は「奈良漬け」だそうだ。
 その名の通り古都·奈良の名物で、瓜などを酒粕とザラメで漬け込んだ粕漬けの一種だ。
「中学の修学旅行で奈良に行ったとき、はじめてたべたの。ぱりぱりして、甘くって、お酒の香りがふわあっと立って、こんなにおいしいお漬物があるのかと思ったわ」
 人によっては好き嫌いがあるかもしれないけど、ぼくも伊緒さんの言うとおりだと思う。
 最近では瓜だけではなく、熟れる前に早どりしたスイカや柿なんかの奈良漬けもあるという。
 ところで、最初のほうでぬか漬けのお話が出たけれど、これはもう本当に香の物の王ではないだろうか。
 ビタミンとミネラルと乳酸菌をたっぷりと野菜に与える、日本人の叡智の結晶だ。
 実はお家で伊緒さんがぬか漬けを試してくれたことがある。
 すぐに使えるぬか床が入った簡易版のお試しセットというのがあって、冷蔵庫でできるというやつだ。
 面白がってさっそく大根とかにんじんとかキャベツとか、あり合わせの野菜をいろいろ漬けてくれたのだ。
 これがもう、すっごくおいしかった。
 浅めに漬けたものは爽やかに、時間をおいたものはまろやかになって、多くの野菜を試すうちに少しずつぬか床の味も変化していくようだった。
 ぬかは少なかったのでほどなく消耗してなくなってしまったけれど、最後のほうに長めに漬けた野菜はまるでチーズのようなコクがあった。
 冷蔵庫で保管しているせいか、ニオイもまったく気にならず、手入れも毎日でなくて大丈夫なのもポイントだ。
「晃くん、とってもおいしかったねえ!今度は自分でぬか床からつくってみようかしら。これなら続けられそうだし。我が家の味、ができたらすてきよね」
 おお、なんと、ついに伊緒さん特製のぬか漬けが……!
 なんだか、めちゃくちゃうれしい。
 伊緒さんがすでに『ぬか漬け入門』なる本を熱心にめくっている。
「ふうん、なに漬けてもいいみたいね。セロリにみょうがに……ええっ!アボカド!?なにそれ、おいしそう!」
 いきなり変化球だ。
 でも、きっと彼女はおいしく漬けてくれるんだと思う。
 伊緒さんの「香の物」をこれからもいただけるかと思うと、思わず頬がゆるんでしまうのだった。 

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