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箸休め 「〆のお茶漬け」、僕だってたまには付き合いで遅くなることもあるのです

小説
ガイムさんによる写真ACからの写真
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 僕は小さな小さな出版社に勤めている。
 社史とか自分史とかを主に扱う会社で、かっこよく言えば「書籍編集者」という職業だ。
 でも零細なので、実際には取材から簡単なライティング、編集に校正、印刷手配まで、つまり何でも自分でやらなければならない。
 と、言いつつも僕はこの仕事をとても気に入っていて、なんだかんだで楽しくやっていけているのは幸せなことだと思う。
 職業柄、いろいろな人と関わることになるので、お酒の席へのお誘いも結構多い。
 僕はほとんど下戸のようなものなのだけど、お酒を酌み交わしながらの打ち解けたやりとりや、食事とはまた異なる情趣をもった酒肴の数々が好きだったのだ。
 でも、結婚してからはついついそういうお付き合いも敬遠するようになっていた。
 温かな家庭料理を用意して、笑顔で出迎えてくれる伊緒さんのもとに一刻も早く帰りたかったから。
 しかし、それでも時には業務の延長のようにしてお酒に付き合わなくてはならない日もあるのだ。
 今夜はそんな、ほんのちょっと無理をしてテンションを上げなくてはならない取引先の人がお相手だ。

 約束の居酒屋は、僕の会社にとって行きつけの、気の置けないゆったりしたお店だ。 
 先方さんはすでに奥の小上がりに陣取って、さっそく一杯かたむけているところだった。
「おう、晃平! ここや、ここ!」
 大きな声で手を振っている大きな男は、主に製本をお願いしている会社の人だ。
 何度か一緒に仕事をしているうちに、何故かすっかり気に入られてしまい、時々こうして商談という名目のサシ呑みにお声がかかるのだ。
「大沢さん、ごぶさたです。ご機嫌ですね」
 僕はぺこりとお辞儀をして、大沢さんの向かいに正座でかしこまった。
「なんやねん、他人行儀にしてからに! 足くずせ、足」
 そう言って笑いながら、お店の人に生中ふたつ追加!と大声で注文する。
 下の名前で気安く呼んでくれるほど、大沢さんは僕をかわいがってくれていた。
 でも、僕はこの人が嫌いではないにしろ、正直ちょっと苦手なのだ。
 実をいうと僕も関西育ちではあるのに、特別に歯切れのいい関西弁と大きな声が少しこわい、というのもそうなのだけど・・・。
「・・・それでなあ、結局は同属経営やさかい、なんちゅうか馴れ合いになっとるねん。古参の社員はそれでもええけど、新卒とか中途の連中やらはそらやりにくいでえ。そもそもやなあ・・・」
 ジョッキが3杯・4杯と進むにつれて、だんだんと会社のグチになっていくのだ。
 僕だってサラリーマンだから、そういう気持ちはよく分かる。でも、ぼやいても仕方のないことをいくら人に喋ったところで何の解決にもならないのではないか。
 僕は大沢さんそのものは嫌いじゃないのだけど、こういう風にグチっぽいお酒になるのがどうにも苦手なのだ。
 しっかりと相槌を打つフリをしながら、目の前に漫然と並ぶ酒肴を見渡していた。
 枝豆、冷奴、たこわさ、焼き鳥、フライドポテト・・・。
 どれも普段のご飯ではほとんど口にしないけど、お酒を飲むときには必ず欲しくなってしまう不思議なメニューだ。
 たくさん食べるわけでもないのに店を出る頃にはそれなりに満腹感があり、そうかと思うとほどなくラーメンでも食べたくなるような物足りなさに見舞われてしまう。
 そういえば伊緒さんと二人でお酒を飲みに行ったことはまだないな・・・。ほろ酔いでぼんやりした頭に浮かぶのはそんなことばかりだ。
 週末だったので混んできたのだろう。店員さんが早めにラストオーダーを取りに来たのを潮時に、店を出ることにした。
 支払いは全部、大沢さんがもってくれた。領収書をもらうのを見たことがないので、きっとポケットマネーで払ってくれているのだろう。
 べろんべろんに酔っているように思った大沢さんだったが別れ際に、
「あの件な、わしがちゃんとしとくさかい心配いらんて、社長によう言うといてな」
 と、懸案のことを請合ってくれた。
 お礼を述べて見送ろうとしたとき、大沢さんはふいに、
「晃平、お前はほんまに聞き上手やな」
 と、真面目な顔で声を掛けてきた。
「みっともないとは思うんやけどな、お前にはついつい愚痴を言うてしまうんや。お前はたまったもんやないかもしれんけど、なんか聞いてもらいたくなるような安心感っちゅうのは、ひとつの才能やで。そういうとこ、大事にするんやで」
 そう言って、いつの間に用意したのか何かの折り詰めを僕に押し付けて、ほな、嫁さんによろしうな、と手を振って夜の雑踏へと溶け込んでいってしまった。
 なんだか面はゆいような気持ちで、僕は折り詰めをもったまま夜空を見上げた。
 ――さあ、帰ろう。伊緒さんの待つ家に。

 遅くなるので先に寝ててくださいね、と早めにメールしていたが、伊緒さんはちゃんと起きて待っていてくれた。
 パジャマにカーディガン、という姿で出迎えてくれたのがなんだか新鮮で、さらに酔いが回ってしまうようだ。
 大沢さんが持たせてくれた折り詰めは焼き鳥だった。あまりにも正しい「飲んで帰ってきた感」がおかしくって、伊緒さんは喜んでころころと笑ってくれた。
「ちゃんと何かおなかに入れてきたの?」
 飲むとなぜかあまり料理に手を付けにくくなることを知っていて、伊緒さんが気遣ってくれる。実を言うと家に帰って安心したのか、さっきから腹の虫が鳴っている。
「お茶漬けなんか食べる?」
 空腹を見計らったかのように、伊緒さんが嬉しいことを言ってくれる。
「じゃあ、わたしも一緒に食べようっと!」
 ぺろっと舌を出しながら、伊緒さんが手際よくお茶漬けの支度をしてくれる。
 お湯がわくしゅうしゅうという音を聞きながら、コンロの火でふわっと部屋全体が温かくなっていく感触に身を委ねていた。
 幸せだ。とっても。
「さあ、食べましょう」
 海苔、三つ葉、あられを散らしたご飯が小ぶりなお茶碗に盛られ、側の急須からはほうじ茶の香ばしい香りがたちのぼっている。
 そして、小皿にはちぎり梅、焼き鮭、たらこが仲良く並び、なんとも楽しげな風景となっている。
「すごい! 三種盛りなんて豪勢ですね!」
 僕は思わず歓声をあげてしまう。これは、まともに食事をしていないことを見込んで、わざわざお茶漬けの用意をしてくれていたのに違いない。
 ご飯にほうじ茶をかけると、伊緒さんと顔を見合わせ、思わず頬がゆるんでしまう。
 いただきます、と一緒に唱え、箸をとった。まずは手前側のご飯を軽くほぐして、何も乗せずにそのままお茶と一緒にすすってみる。
 ・・・ああ! おいしい!
 胃の腑に沁みる、とはこのことだ。お酒の後にはことのほか優しい味わいに、ほっと全身が温まってゆく。
 二口目をすすりこんだとき、お茶だけでは出ないような旨みがあることに気が付いた。これはいったい・・・。
「伊緒さん、これって普通のほうじ茶ですか?」
 なんだかダシのようなおいしさを感じて、と言うと、
「気付いてくれた?」
 と、伊緒さんが表情を輝かせた。
 秘密は、ほうじ茶を淹れる際に普通のお湯ではなく、いつも使っている水出しのダシを用いたのだという。
 ダシでお茶を淹れることで、香ばしくて旨みのあるお茶漬けにしていたのだ。
 道理で存在感があるはずだ。小皿の具も一緒に、少しずつ全種類をいただいた。味に変化が加わって、とても楽しい。
 こんな風に伊緒さんにしてもらえるなら、たまには大沢さんの愚痴に付き合うのも悪くないかな・・・。
 そうだ、今度は伊緒さんを誘って、二人で居酒屋にでも行ってみよう。きっと楽しいお酒になるだろう。
 そしてやっぱり、〆にはこのお茶漬けをまた一緒に食べたい。
 そう思いながら、僕はもう一杯お代わりしたら食べすぎかなあ、と、真剣に悩んでいた。
 心地よい湯気の向こうで、伊緒さんがにっこりと笑った 。

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