いまぼくが伊緒さんと暮らしているオンボロアパートには、結婚を機に移ってきた。
ぼくにとっては、それまで住んでいたもっとオンボロなアパート(”文化住宅”と書いてあった)に比べるとずいぶん新しくなったように感じられた。
けれど、伊緒さんからすればかなり古めかしい住処になってしまったはずだ。
でも彼女は嫌な素振りもみせずに、「レトロで楽しい」と言ってくれている。
さて、いざ引っ越しというときになって、あまりの荷物の多さに愕然となる、というのはよくあることらしい。
ぼくの場合も男の一人暮らしだからと侮っていたら、よくもまあ狭い部屋にこんなに詰まっていたものだと呆れるほどの荷物量になってしまった。
伊緒さんにしても同じことだったようで、古い新居に山積みになった段ボールを前に、顔を見合わせて思わず笑ったものだった。
ぼちぼちと荷解きをしていると、たいへん興味深いものがたくさんあるのに気が付いた。
伊緒さんの学生時代の卒業アルバムとか、ネコを中心としたぬいぐるみの数々とか、知ってるようで知らない彼女の一面を垣間見るような品々に目が奪われる。
ふと、不思議な形をした素焼きの笛が目に止まった。
あ、これって。
「伊緒さん、もしかしてこれ、オカリナですか?」
涙型をした白い楽器は紛れもなくオカリナだった。
素朴でやさしげな音色は幾度か耳にしたことがある。
伊緒さんがオカリナを吹くとは知らなかったのだけど、なんだか彼女のイメージにぴったりで嬉しくなってしまった。
「う……、あ……。そう……、です」
ところが伊緒さんの反応は珍しく歯切れが悪く、どちらかというと”しまった”的な顔をしている。
すこうし不思議には思ったけれど、ぼくは悪気なく何か曲を吹いてほしいとリクエストしてしまった。
最初はいやだいやだ恥ずかしい、と抵抗していた伊緒さんも、やがてぼくの熱意に押し切られる形で観念し、
「では、お耳汚しを」
と、優雅にオカリナを構えて静かに奏で始めた。
ずー ぽー ぴー
ぽんぽぴー
ぽんぽぴー
ぺー ぺー ぽん
ぷーぷ ぴー
ぷーぷ ぴー
あろうことかその曲は、かの有名なシスの暗黒卿が登場する時のBGMだった。
インペリアル·マーチ。
どうかあのメロディラインを思い浮かべながら、もう一度読んでください。
ぼくは驚愕した。
とんでもなくかわいい。
なんやしらん、ええ人出てきそうやん。
「……これしか知らないの」
伊緒さんは申し訳なさそうに、きゅっと下唇を噛んでオカリナを降ろした。
この人のことすごい好きだ、と改めて思った。
でもそれ以来、ぼくの前で吹いてくれたことはまだ一度もない。
そんなこんなでまったりと片付けをしているうちに日も暮れてきて、そろそろお腹がすいてきた。
引っ越しは先行してぼくが入居して、冷蔵庫など運び入れておいたのだけどたいした食材はないはずだ。
「伊緒さん、夕食の買い出しにでも行きましょうか。冷蔵庫にはなんにもないですよね」
そう言ったぼくの横に伊緒さんがぱたぱたとやってきて、冷蔵庫の中身を確認する。
「お豆腐、挽き肉、おネギに玉ねぎ……。調味料はいろいろあるわね。大丈夫!かんたんなものしかできないけど、一食つくれるわ。お買い物もいいけどなんだか雨降りそうだし」
外をみやると確かに雲が低く垂れ込めて、いまにも降り出しそうな雰囲気だ。
引っ越したばかりで土地勘も不安なこともあり、ここは伊緒さんにお願いすることにした。
なにかお手伝いを、とウロウロしてみたけれど雑然とした状態ではかえって邪魔なようだ。
片付けを続けることにして、段ボールの山と再び対峙するとふと伊緒さんの卒業アルバムが目に入った。
高校時代のもののようだ。
伊緒さんは恥ずかしがりながらも見ることをOKしてくれたので、片付けそっちのけでアルバムを開いてみた。
「伊緒さんは何組だったんですか」
台所に向かって聞いてみる。
「ひみつ!おしえない」
ちょっと怒ったような声が返ってくる。
A組から順に生徒の卒業写真をめくっていく。
みんなすごく若い、と感じるあたりに自分がいつの間にか大人になっていったことを思い知らされる。
伊緒さんの写真はすぐにみつかった。
いまとほとんど変わらない顔で、濃紺のブレザーにグレーのプリーツスカートという制服姿で佇んでいる。
行事やクラブ活動のコーナーを探すと、歴史クラブと茶道部の写真に彼女が収まっていた。
どこか博物館のようなところで、真剣に展示物を観察している伊緒さん。
野点のお茶会で、浴衣姿でお茶を点てる伊緒さん。
いずれも15~18歳頃の姿だ。
写真の中のこの少女が、さっきオカリナを吹いてくれて今ご飯をつくってくれていて、これからぼくと一緒に暮らしてくれる女性なのだと思うと、なんとも不思議な気分だ。
台所からじょわぁーっ、と威勢よく食材を炒める音がして、すかさず香ばしい匂いが立ち込めてくる。
かぽかぽかぽ、とフライパンにおたまが当たる音も楽しげだ。
これから毎日、こんな音を聞かせてもらえるのだろうか。
そう思うといまさらながら幸福感が押し寄せてくる。
「おまたせ。お口に合うといいけど」
段ボールの間に据えた小さなテーブルに、伊緒さんがことん、とお皿を置いた。
「うわあ!おいしそう!」
お皿には、たっぷりの麻婆豆腐が盛り付けられていた。
つややかなお豆腐に、コロコロした挽き肉のタレが絡まって食欲を刺激する。
そうか、冷蔵庫の乏しい食材をみて瞬時にこのメニューを考えてくれたんだ。
「さあ、熱いうちにどうぞ」
ちょっと照れたようにすすめてくれた伊緒さんにならって、手を合わせて「いただきます」とふたり一緒に唱える。
レンゲなんてないのでカレースプーンで麻婆をすくい、ほこほこ湯気を立てているところにふうふう息を吹いて頬張った。
ぷりん、としたお豆腐の食感に甘辛い挽き肉や粗みじんの玉ねぎが合わさり、即座に唐辛子がピリリと追いかけてくる。
これは白いご飯が恋しい!
「伊緒さん、すごくおいしいです」
「そう、よかった」
伊緒さんが安堵したように、にっこり笑った。
いまさらだけど、そういえばこれが彼女につくってもらう新居初ご飯だ。
なにやら急に照れてしまって、気取られないように料理について質問することにした。
「タレの味も絶妙です。調味料は何を使ったんですか」
よくぞ聞いてくれたとばかりに、伊緒さんがニッと笑った。
「豆板醤がなかったから、お味噌に七味とラー油で具を炒めたの。タレそのものは鶏ガラスープの素を少々と、オイスターソースとお醤油よ。仕上げにほんの少しお砂糖を入れるとコクが出るのよ」
おお、調味料もあり合わせのものでこんなに本格的な味わいにしてくれたのか。
すごい。
「あと、このお豆腐はきぬごしですよね。よくきれいに形が保ってますね」
きっと僕が作ればぐずぐずのおぼろ豆腐みたいになるだろう。
それはそれでまあ、おいしいかもしれないけど。
でも伊緒さんは、
「わっ!よく気付いてくれたわね」
と、満面の笑みを浮かべた。
彼女が言うにはこうだ。
きぬごし豆腐はやわらかくて口当たりがいいので麻婆にはもってこいだが、いかんせん崩れやすい。
そこで塩を加えたお湯で事前に軽く煮ておくのだという。
そうすると表面がやや固まって崩れにくくなり、ぷりんとした食感になる。
そうか、そんな細やかな技を駆使して作ってくれたんだ。
「ほんとにおいしいです。ご飯のおかわりいいですか」
「はい。よく噛んで食べるのよ」
お茶碗を受け取って、ご飯をよそってくれる伊緒さんの姿に「ああ、結婚したんだなあ」としみじみとした思いを噛みしめた。
あとは、できればもう一度伊緒さんのオカリナを聞きたいけれど、それはまだ言わないほうがよさそうだ。
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