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【紀伊 零神宮のあやかし文化財レポート】幕間 あかり先生の歴史講座 〜高野山のはなし〜

小説
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――はい!皆さんごぶさたしています!

久しぶりの授業なのですが、やっぱり教科書は使いません!

さて今日は、高野山について少しお話しましょう。
和歌山の皆さんにはもしかするととっても身近かもしれませんが、わたしのような遠く離れた土地の者から見ると、もうめちゃくちゃにエキゾチックなのですよ。

高野山の成り立ちなんかは、いまさらわたしが言わなくても皆さんよくご存じだと思います。
そこで今回は、昔の高野僧団の組織割りについて軽く触れてみましょう。

まず、お坊さんたちは大きく3つのグループに分かれていました。

学問としての密教研究や祈祷を行った「学侶方がくりょかた」。
寺院管理などの実務や、僧兵としての任務も担った「行人方ぎょうにんかた」。
全国を行脚して、布教や勧進をした「聖方ひじりかた」。

平安時代から江戸時代にかけて、この3グループが高野山の僧団を形成していました。
乱暴な言い方ですが、ざっくりとインテリ組・戦闘員・営業部隊に役割分担をしていたとわたしは解釈しています。

そういえば泉鏡花の『高野聖』という作品がありますね。
まさしく聖方ひじりかたの聖で、各地を旅するお坊さんも多くいたのですね。

これらを総称して「高野三方」といったのですが、それぞれのグループは拠点としたお寺が違っていました。
代表的なところでは学侶方は青巌寺、行人方は興山寺、聖方は大徳院とされていますが、明治元(1868)年に高野三方は廃止となります。

翌明治2年、青巌寺と興山寺が合併する形で生まれたのが、現在高野山真言宗の総本山である金剛峯寺です。
ちなみにこのお寺の読みはふつう「こんごうぶじ」ですが、山内の関係者は「こんごうぶうじ」と呼ぶことも多いのだとか。

そうそう、高野山といえば開祖である弘法大師・空海がいまも奥の院で生身のまま祈りを続けているという信仰がありますね。
そのため、高野山では今に至るまで脈々と、空海のために食事をお運びしているのです。

維那ゆいなと呼ばれる専属の役僧が早朝と昼前の1日2回、嘗試あじみ地蔵に供えて味見をしてもらった料理を届けるというものです。
基本は火を通した精進料理だそうですが、最近ではメニューにパスタなんかも採用されているんですって。

パスタを召し上がるお大師さまって、なんだかほほえましいですよね。

あとひとつ、高野山独特の風習をお話しましょう。

標高800mほどの高地にある高野山は、真冬には零下10℃近くにまで下がる極寒地帯でもあります。
そのためかつては「里坊さとぼう」といって、厳冬期に避寒する麓の場所を定めていたのです。

それほどまでに寒い高野山のこと、実は身体をあっためるためにお酒を飲んでもよいことになっていました。
空海いわく「塩酒おんしゅ一杯これを許す」としています。
仏教には不飲酒戒ふおんじゅかいがありますが、百薬の長としてほんの少し用いるならばよいという意味ですね。

わたしですか?
わたしは、そうですねえ。嗜む程度、でしょうかね。あはは。

おっと、またまたしゃべり過ぎました。
ではでは今日の授業はここまで。
またねー!

次のお話↓

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