「……はい。承知しました。ええ、それでは納品までお待ちください」
自信たっぷりに言い放ったものの、わたしは電話を切った瞬間、大きくため息をついてしまいました。
さて、困ったことになったぞ。
なにが困ったことになったかというと、わたしがお家で受けているライティングのお仕事のお題についてです。
大好きな歴史関係のトピックを中心に書いていますが、もちろんすべてが得意分野というわけではありません。
でも、わたしのようなフリーランスだと、「それはちょっと……」とためらっているとせっかくのチャンスを逃してしまいます。
それでたいがいは「できます」と即答するのですが……。
今回のお題は「お寿司の歴史」について。
しかも、江戸前と関西風の違いを踏まえつつ、”実食した感想”も織り交ぜよというオーダーです。
歴史や文化的なことは文献にあたったり、詳しい方に聞いたりして対応が可能です。
しかし、”実食”となると、うーん……。
ぴんきりとはいえ、回っていないお寿司の相場くらいは存じています(おとなですので)。
まともに体当たりすると、取材だけで赤字になること必至でしょう。
このときばかりは、自分の思慮の浅さにへこんでしまいました。
困った困ったと思っていると、通りがかった夫が、
「なにやらお困りのようですが……」
と、やさしく声をかけてくれました。
これでもなるべく顔に出さないように心がけているつもりなのですが、わたしは夫いわく、
「困ると”ミッフィー”みたいな顔になる」
そうです。
マンガにすると口のあたりがバッテンになっているのかもしれません。
ようするに、結局ヘンな困り顔をしているのでしょう。
かくかくしかじか、というわたしの情けない経緯を、夫はうんうんと頷きながら聞いてくれました。
そしてひと通り聞き終えると、おもむろにこう言ったのです。
「事情はよく分かりました。行こうじゃないですか、取材に!」
かくしてわたしは、お寿司屋さんのカウンターに、夫と並んで座ることになったのです。
えらいことになったと、内心気が気ではありません。
彼が連れてきてくれたのは、紛うことなき本格派の、回っていないお寿司のお店です。
こういうお店はもちろん自分で入ったことなんてありません。
「お寿司をごちそうしよう」と声をかけてくださるおじ様もいらっしゃいましたが、なんだか怖いのでそのつど大おじの三十三回忌を理由にお断りしてきました。
あわあわあわ、と落ち着かない気持ちですが、隣の夫はたいへんくつろいだ様子で熱いお茶などすすっています。
「いらっしゃいませ。”お昼のおまかせ”で承っております。それでは、ご順に握ってまいります」
髪を短く刈り込んだ若い職人さんが、丁寧にあいさつをしてくれます。
夫が「よろしくお願いします」と軽く会釈したのに合わせて、わたしも座ったままぺこりとおじぎをしました。
なんだろなんだろ!
慣れてるんだべか、こういうの!
前菜として出してくれた「海鮮のオクラ和え」を頂きながら、ふしぎな感慨にひたってしまいます。
寿司ネタの切れ端を上手に使った一品ですが、たくさんの種類の魚介を一時に味わえる、ぜいたくなお料理です。
お出汁もすごくいいのでしょう、奥行きのある三杯酢がとろっとしたオクラとからまり、魚介それぞれの魅力を引き出します。
もうお口の中がいろんな味でいっぱいで、すでにとっても幸せ。
「こちらでは江戸前と関西風の両方を頂けると聞いて、楽しみに来ました。そういうお店って、珍しいですよね?」
夫がナイスな質問をしてくれました。
まぬけなことにほとんど取材を忘れかけていて、彼がわざわざ東西両方のお寿司を食べられるお店に連れてきてくれたのも、その時気づいたくらいでした。
「はい。先代が両方の寿司を修行した人でして、自分もそれを受け継ぎました。邪道だっておっしゃる方もおられるんですけどね。でも、全国から食材が手に入るようになりましたから、それぞれの一番おいしい食べ方を考えると、東西折衷となりました」
へえぇ、そうなんだ!
関東と関西のお寿司の違いって、考えたこともありませんでした。
「握りでいえば、関西だと白身が多いですね。素材そのものの味を大事にします。ですのでたまり醤油か、あるいは塩で召し上がっていただきます。江戸前はヒカリモノを酢で締めたり貝を煮たり、昔ながらの”仕事”って呼ばれる加工が特徴です。煮詰めを塗って、あらかじめ味付けしてお出しするのも独特ですね」
なるほど……。
たしかに、関東と関西だととれるお魚も違うし、味付けの好みにも差があるのは自然なことです。
お寿司というひとつのジャンルに、食文化の多様性が見事に現れているのでした。
白身などのあっさりしたものから、というセオリーに合うよう、前半は関西風の握りを出してくれました。
職人さんは寿司酢のようなものを指に浸し、おにぎりを握るときのような形でぽんっ!と両手を打ち合せます。
シャリとネタを合わせて握る優雅な手付きは、まるで掌中に小鳥がいるかのようなやさしさでした。
初めて目の前で見る寿司職人の技前に、夫と一緒にほれぼれと見入ってしまいます。
「よろしければ、こちらは粗塩で」
「お好みですだちを絞っていただいても」
控えめなアドバイスに従っていただいたお寿司の、なんとまあ素材の味が引き立つこと!
ねっとりと甘いイカの身や、初めて食べるみずみずしいイサキなど、「ああ、お魚ってこんな味がするんだあ」という新鮮な驚きでいっぱいです。
また、なによりも口に入れた瞬間にほどけてしまうシャリにも感激しました。
よくこれでお寿司の形を保っていますね、と思うほどふわふわで、なんだかお米とお米の間にたくさん空気の層があるみたいな食感です。
「おいしい……!すごくおいしいです」
思わず漏れ出た言葉に、夫も職人さんも笑って応えてくれました。
「さあ、後半は江戸前になります」
今度は素材にひと手間加えた、パンチのあるお寿司の登場です。
ふっくりした煮穴子や、軽く酢〆にしたアジなど、わたしには珍しい食材のオンパレードです。
また、特に加工しないネタでも、甘辛いタレを塗って出してくれるのも面白く感じました。
これが「煮詰め」というものなんですね。
わたしは特に、生の赤貝に煮詰めを塗ったものがすごく気に入ってしまいました。
「あ……ご飯の色が、違う……?」
お恥ずかしいことに、食べるのに夢中でシャリの色が関西風と異なることになかなか気づきませんでした。
聞くと、このお店では江戸前のネタの味付けに負けないよう、赤酢のシャリを使うとのことでした。
うーん、繊細な気くばりに感じ入るばかりです。
「握りはこれで最後になります。東と西の横綱を、食べ比べてみてください」
そう言って一貫ずつ並べて出してくれたのは、有名なまぐろのヅケと、薄い膜のようなものをまとった長方形の鯖寿司でした。
「東はご存知かと思いますが、こちらは関西寿司の定番、”バッテラ”です。握りと申しましたが実は押し寿司でして、関西ではこういった”箱寿司”が伝統的なものになります」
透明な膜はおぼろ昆布を削った後の芯である、”白板昆布”というものだそうです。
前歯でかみ切ると、むちっとして甘酸っぱくて、〆た鯖との相性は抜群です。
もちろんまぐろのヅケもこっくりと旨みが凝縮されて、ほっぺたが落ちてしまいます。
お寿司の後に、海の香りも豊かなアオサの赤だしを吸うと、口中のお魚の脂がふわあーっ、と溶けていってしまいました。
おなかがぽんぽんで、ぽーっと幸せな気分ですが、夫は職人さんにおいしかったお礼を丁寧に述べて、すぱっとお店を出ました。
繁盛して他のお客さんがどんどん入ってきていることもありますが、長っちりしないのもひとつのマナーであることを初めて知りました。
「あーっ!おいしかったあ!いやはや貴重な体験させてもらいました。ありがとうございます」
お店から離れたところでそう叫んだのは、なんと夫の方でした。
わたしがお礼を言うべきなのに、びっくりしてそう伝えると、
「いいえ、いっぺんああいうお店に伊緒さんと行ってみたかったんです。でもほら、敷居が高いというか、なかなか入る勇気なくって……。でも、”取材”っていう大義名分のおかげで、堂々と楽しめました。なので、ありがとうございます。……って、記事書きの参考になりましたか……?」
そんな彼の言葉に、わたしは胸がいっぱいになってしまいました。
どうしていいか分からず、とりあえず”にくきゅう”の形にした手で、むにむにと彼のおなかを押しました。
晃くん、ありがとう。
こんどは、腕によりをかけて、わたしがごちそうつくるからね。
そう心の中でささやきます。
その後すごくおいしそうな記事が書けたのは、言うまでもありませんよね。
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