”半額”と書かれたシールがまばゆい光を放ち、ぼくたちはその神威に立ちすくんだ。
時刻は午後7時、すなわちひときゅうまるまる。
場所は行きつけのスーパー、鮮魚売り場。
パックになったいくつかのお刺身に、神の恩寵とも称される半額シールが燦然と輝いている。
天球には雷光がほとばしり、怒気をはらんだ疾風が容赦なく吹きすさんだ。
時あたかも慶応二年、近代への夜明け前のことやったがじゃ……。
「晃くん、しっかりして」
伊緒さんに脇腹を小突かれて、はっと我に返る。
おお、危ないところやったがじゃ。
またあっちの世界にトリップしちょったぜよ。
すでに方言も錯乱気味で、危険な状態だ。
でもお刺身が半額。
浮足立つなというほうが酷だとは思いませんか。
悩んでいるのはほかでもない、半額は半額でもそれぞれの量がちょっと半端なのだ。
まぐろの切り落とし(小)がひとパック。
サーモンとイカとカンパチの刺盛り一人前(つまり二切れずつ)がひとパック。
お刺身をとった後のカンパチのアラがひとパック。
以上。
とってもお買い得ではあるけれど、そのままおかずにするには明らかに足りない。
さて買おうかどうしようかと悩みながらトリップしてしまったのだ。
「いったん落ち着きましょう。深呼吸して。まずは息を吐ききるといいわ」
伊緒さんのすすめにしたがって、とりあえず深く息を吐いてみる。
すると今度は自然に空気が入り込んできて、おのずとゆったりした呼吸になっていく。
自律神経も徐々に整い、ようやく半額シールを正視できるようになってきた。
ふう、やれやれ。
「どうしましょうか。お刺身食べたいけど微妙な量ですね」
つまり整理するとただそれだけのことだ。
でもなんとなく、大ごとっぽく騒いでみたい年頃だったのだ。
もっと量の多いファミリー向けパックとか、お寿司の盛り合わせとかもあったのだけど間に合わず、こうして半額セールの生き残りたちと対峙している。
ぼくたちの他にこれを買おうかどうしようかと悩むお客さんはおらず、このままだと多分売れ残るのだろう。
「ねえ、晃くん。このカンパチのアラってたっぷり入ってるけど、鮮度はどうかしら」
伊緒さんの問いかけに、ぼくはそっとラップごしにアラの身に触れてみた。
十分な弾力とみずみずしさがあり、もちろん身の部分は生でも食べられるくらいだろう。
「カマのところ、お刺身にできる?」
「少し時間かければ、できると思います」
ごろん、と大きなカマは、胸ビレからエラの手前までの部分だ。
運動量が多いうえに脂ののった部位であるため、その肉身は「カマトロ」と呼ばれるほどおいしい。
ただ、骨の構造が少し複雑なので、さばくのにはコツがいる。
「お刺身とアラ、買っていきましょう。いいお料理を思いついたわ」
ニッ、と笑った伊緒さんにはどうやら秘策があるようだ。
半額鮮魚といくつかの食材を手に、いそいそとお家に帰ってきたぼくたちはさっそく食事の支度を始めた。
ぼくは伊緒さんの依頼どおり、カンパチのカマトロをさばきにかかった。
大まかとはいえ、意外なほどたっぷりの肉身がとれて得した気分だ。
カマの骨にはまだまだ身がついているので、そのまま塩焼きにでもすれば立派なおかずだ。
台所は広くないので、あとは伊緒さんにバトンタッチして一旦引き上げる。
いったいなにをつくってくれるんだろう。
ことん、ことん、ぼわん、じゅおっ、としばらく料理する音が聞こえ、静かになったと思ったら伊緒さんがこちらに戻ってきた。
手には大きなボウルと、なぜかうちわ。
「はい。お手伝いしてね!」
伊緒さんにうちわを手渡されたぼくは、ボウルの中身をのぞいて合点がいった。
「おおっ!お寿司?」
ボウルには白ご飯、そして傍らには寿司酢とおぼしき液体。
うちわであおいで粗熱をとりながらご飯に寿司酢をまぜ込み、酢飯にするんだ。
「すごいすごい!あ、もしかして手巻き……的な」
「ふふーん。ヒミツ!さあ、まぜるからあおいでね!」
そう言って伊緒さんが素早くご飯に寿司酢をかけ回しはじめたので、ぼくは慌ててぱたぱたとうちわで風を送った。
彼女は手際よく、おしゃもじで切るようにご飯をまぜていく。
途端に甘酸っぱい香りが立ち込め、ものすごく「寿司感」が漂ってくる。
ぱたぱた、さっさっ、としばらく見事な連携をしていたけど、突然伊緒さんが
「代わって」
と言い出した。
「まぜるの疲れましたか?」
うちわとおしゃもじを交換しながらそう尋ねると、
「ううん、あおいでみたかったの」
と、はにかんだ。
かわいい。
かくして酢飯はつややかに出来上がり、伊緒さんは上機嫌で再び台所に入っていった。
でも、あの少ないお刺身をどうやって寿司ネタにするのだろう。
さっき手巻き寿司かと聞いたら「ヒミツ」と言っていたので、じゃあ握り寿司?と思っても数貫しかできないはずだ。
そんなこんなを心配していると、
「はい、おまたせしました」
と、伊緒さんが大きめのお皿を抱えて早くも戻ってきた。
今日はどじゃーん!って言わないんですね、と思いながらお皿の中身を見ると、おお!なんと!
「バラちらしですか!」
お刺身のひと切れずつを、さらに小さめに切り分けてちらし寿司全体にトッピングしてある。
かさ増しのためにカニカマも巧みに混じえつつ、たっぷりの錦糸玉子がまた嬉しい。
「はいさい。はいさい」
と、伊緒さんが小皿に取り分けてくれ、ふたり同時に手を合わせて「いただきます」ととなえる。
「お刺身は、いっぺん何もつけずにそのまま食べてみて」
伊緒さんの不思議なすすめにしたがって、まずはまぐろの切り落としに箸を伸ばす。
口に運んだ瞬間、驚いた。
刺身の色がほとんど変わっていないので気が付かなかったけれど、しっかりと味がつけられている。
「なぜかヅケみたいな味がします!」
伊緒さんがドヤァ!とばかりに、背中に隠していた小瓶を取り出した。
「ヒミツはこれ!自家製の”白だし”です」
白だしとは、昆布とかつおで濃いめにとった出汁を、色の淡い薄口醤油などで調味したものだ。
素材の色を邪魔しないこの調味料を手作りしていた伊緒さんは、お刺身を短時間漬け込んで下味を付けたのだ。
いわば”白ヅケ”といった感じだろうか。
普通のバラちらしだと、魚介には別途お醤油や溜まりをつけながらいただくことになるけれど、これならその必要もない。
きれいな色を保ちつつ、しっかりと味のついたネタは食感の違いもとても楽しい。
もちっ、としたまぐろ。ねっとり、としたイカ。ぷりん、としたサーモン。こりこりっ、としたカンパチ。
そしてカンパチのカマトロはしっとりと脂がのりつつも、ぶりんぶりんの歯応えだ。
酢飯の加減も実にほどよく、各種のネタと絶妙に調和してものすごくおいしい。
「伊緒さん、めちゃくちゃおいしいです」
「そう、よかった」
いつものように、伊緒さんがにっこり微笑んでくれる。
「でもすっごく安上がりだったね。タイムセール万歳!」
万歳!と、ぼくも唱和する。
「……明日も行ってみよっか」
伊緒さんがいたずらっぽく笑って、ちらし寿司のおかわりをよそってくれた。
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