ビールほど日本人に愛されているお酒はないかもしれない。
なぜなら「とりあえず」と言って注文するものなんて、ほかにはとんと聞かないから。
「“生”でええやんな?」「“生”の人はー?」といえばもちろん生ビールのことで、最初の乾杯にはほぼこれ一択という雰囲気だ。
“ホット”といえばコーヒーを指すように、“生”といえばすなわちビール。
「とりあえず生」の合言葉が、今夜も全国の酒場で繰り返されるだろう。
ぼくはあんまりお酒に強くなくって、大勢での飲み会なんかもどちらかというと苦手なほうだ。
それでも、お酒の味そのものは「おいしいなあ」と、心からしみじみ思うようになってきた。
まあ、年齢もあるのだろうけど、何より大きいのは結婚して家庭をもったことだと思う。
お家でくつろいで誰にも気兼ねせず、お嫁さんと差し向かいで飲むお酒の、なんと安らぐこと。
酔いつぶれたとしても自宅なので安心ですし。
ココン、コンコン、カリカリカリ、とドアをノックしたり引っかいたりするのが、ぼくが帰ってきた合図だ。
ほどなくお家の奥から、ぱたぱたぱたとかわいらしい足音が近づいてきて、かちゃこんとドアが開けられる。
「おかえりなさい、晃くん」
いつものようににっこり笑って出迎えてくれるのは、お嫁さんの伊緒さんだ。
結婚した今でもぼくは、この人のことをさん付けで呼ぶのをやめられない。
かといって他人行儀なわけではなく、むしろたいへん仲良しだと自負するものである。
「ただいま、伊緒さん」
やはりいつものように少し照れてしまいながら、ぼくは大事に持ってきた袋を掲げてみせる。 「今日はビールにしてみました」
「おおっ!やったあ!」
ぱあっ、と伊緒さんが顔を輝かせ、ぴょこんと跳びはねた。
時あたかも金曜の夜。
「花金」はもう死語かもしれないけれど、ぼくたちにとってもっともお酒が飲みたくなるタイミングには違いない。
「よしよし、ではでは」
「ええ。ではでは」
ガサゴソと袋を揺らしながら、いそいそとお家に入る。
ご飯はすぐに食べられるよう、いつも準備してくれているのだけど、お酒を飲むときにはその前にちょっとした習慣がある。
すばやく着替えて手を洗い、うでまくりをしたぼくは伊緒さんと台所に並び立った。
「準備は?」
「おーけー!」
それは、おつまみを二人でつくること。
おいしいご飯をつくってもらって、そのうえ酒の肴までつくらせるのもなんだかと思うのが半分。
もう半分は、ストレートにそれが楽しいからだ。
「今宵の食材はなんでしょう」
「はい!特価のこちらです!」
伊緒さんがどでん、と取り出したのは鶏の“砂肝”だ。
焼き鳥なんかでよく塩で食べる、歯ごたえのある部位。
歯が丈夫なぼくはこれが大好きで、安売りしていると嬉しくなってついつい買い込んでしまう。
「今日はこのコを、焼き肉のタレで炒めちゃいます!」
伊緒さんが、むふー!とばかりに宣言する。
おお、それは、さぞやビールに合いましょう。
「晃くんは、おネギを小口切りにしてください。一本まるまる切っちゃってね!」
はい、と伊緒さんに手渡された青ネギを、しゃくしゃくしゃく、と小口に切っていく。
結構な量に見えるけど、火を通したらうんとかさが減ってしまうから、これくらいでもだいじょうぶなのだ。
伊緒さんは砂肝を食べよくスライスしているけど、ぼくのリクエストで白い筋の部分はそのままにしてくれている。
よく噛んで食べる、その食感が好きなのです。
「そういえば伊緒さん、砂肝ってどんな器官なんでしょう。レバー、じゃないですよね?」
ふいに、長らくの疑問を口に出してみた。
どちらかというとお肉っぽくて、あんまりモツっぽくはないかもしれない。
「それはねえ、食べものをすり潰すための砂が入った袋なんだって!鶏さんは歯がないから、胃の前の砂袋で食べたものを砕いて、消化を助けるのよ。なんと、恐竜さんにもこれを持っていた種があるそうよ!」
おお、そうだったんだ。
“砂”って付くのは伊達じゃなかったのですね。
どうりで筋肉質な感じがするわけだ。
食材を切っている間に熱したフライパンから、香ばしいゴマ油の匂いが立ちのぼってきた。
「さあさあ、炒めるからね!」
伊緒さんはそう宣言するやいなや、ゴマ油がちゅるんとなじんで薄く煙の立つ鍋肌に、スライスした砂肝を一気に投入した。
じょわあああん、と百点満点の音を響かせ、いくつもの砂肝がいっせいにぎゅぎゅっと縮まった。
塩コショウを高い位置からぱらぱらっ、とふりかけ、菜箸を巧みに操って砂肝をひっくり返していく。もうすでに、そのまま食べたいくらいおいしそうだ。
強火をキープしながら表面を焼き固め、軽く焦げ目がつき始めたところで小口切りのネギを全部入れる。
しばらくすると水分が出てきて、しゅわしゅわと小さな泡が立ったけど、火勢でほどなく蒸発してかき混ぜるたびにキュッキュと音がするようになっていく。
その頃合いを見計らって、伊緒さんは鍋肌に沿って焼き肉のタレを回しかけた。
かぶせるようにじゅわあああっと音が爆ぜ、甘辛さとにんにくがまじりあった、食欲を直撃する香りが湧きたった。
最後にお醤油をさあーっと回しかけ、じゃっじゃっ、と混ぜ合わせたら完成だ。
お皿に盛りつけるのももどかしく、
「さあ、さあ、さあ!」
と、グラスと缶ビールとを手に、わたわたわたと食卓に駆け込んでいく。
「できたできた!あっついものは、あっついうちに!」
と、伊緒さんが我が家の家訓を唱えながら、手早くお箸と小皿を配してテーブルに料理をでん、と据える。
ビールを注ぐのはぼくの役目だ。
そのほうがおいしいと言ってくれるので、すっかりその気になってしまう。
「まあ、まあ、まあ!」
などとよくわからない常套句を叫びながら、ぷしゅこんっ、とプルタブを引き起こす。
ぼくは伊緒さんのグラスに泡を立てるように、高い位置からぼぼぼっ、とビールを注ぐ。
しばらく待って、泡が落ち着いた頃おもむろに、静かにビールをグラスに満たしていく。
札幌のビール博物館で習ってきた注ぎ方だ。
こうすると泡が長く保たれて、ビールの味を損ないにくい。
自分の分も同じように注いで、焦がれるような気持ちでグラスを打ち鳴らす。
「今宵の幸せに!」
「みんなが幸せでありますように!」
それぞれ乾杯の言葉を口にして、
「ウラーッ!!」
とロシア式に唱えて二人同時にビールをあおる。
口に含んでのどを通って胃の腑に落ちるまで、ぱちんぱちんとビールが弾け続ける。
あああ、気持ちいい。ごめんなさい。
横目で伊緒さんを見ると、んくっ、んくっ、んくっ、と、すごくいい飲みっぷりだ。
ぷはあーっ、とお約束の一息をつくと、なにやら二人とも自然に笑ってしまう。
そこで、手を合わせてお待ちかねの砂肝に箸を伸ばす。
口に入れると甘辛いタレの味と、にんにくの力強い香りが鼻に抜けて、ビールの後味をあおるように引き立てる。
噛みしめた砂肝は、肉身の部分は厚く切ったハムのようにさくっとした歯触りで、筋に近い部分はコリコリと小気味よい歯ごたえで楽しませてくれる。
多めに入れたネギも強火で十分に甘みが出て、しゃきしゃきとした食感でアクセントを添えてくれている。
と、そこで再びビールをあおる。
口の中いっぱいに広がったタレと砂肝の風味を一気に洗い流し、より強く麦とホップの苦みと香りがのどに弾ける。
「くああああ」
「ぷわあああ」
などと銘々に唸りながら、またお箸が砂肝に伸びていく。
「これはもう、無限ループですねえ」
「まったくもって、けしからぬねえ」
益体もないことを言い合いながら、2杯目のビールを注いだりする。
これはまさしく、幸せの形そのものだ。
しみじみとそう思いながら、今宵の酒肴を伊緒さんと二人、噛みしめる。
けれど、ぼくが手伝ったのはネギを切ることくらいだったと気付いたのは、しばらく後のことだった。
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