喫茶店とかカフェとかを「サテン」と呼ぶ人がめっきり少なくなったと、有識者たちが憂えているらしい。
ぼくもお得意先の方との打ち合わせで、
「どっか近くのサテンにでも行こうや」
と言われて途方に暮れたことがある。
サテンが「茶店」だと気付いたときにはすでに遅く、なんとなくラテン風の一杯飲み屋で見積もりをとったのはいい思い出だ。
それ以来、一定以上の世代のお客さんと外で打ち合わせをする際には、
「どうでしょう、近くのサテンで」
と言ってみることにした。
(おっ、こやつ、若いのになかなかできるな)
という表情をお客さんが垣間見せた、というのは気のせいで、どちらかといえば失礼にあたるのだと当のお客さんに教わった。
すみません。
いまでこそコーヒーチェーンやファーストフード店、ファミレス等々、気軽にお茶を飲んだり話をしたりするお店には困らないけど、ほんの一昔前まではそうではなかった。
年代によってもちろん捉え方は違うのだろうけど、往年は「サテン」こそがそんな特別な場所だったのだ。
ある人いわく、
「インベーダーゲームが出た頃でね。当時は喫茶店のローテーブルがそのままゲーム機だった。コインをこう、脇に積み重ねてねえ。あの時真面目に営業してたらこんなふうにはならなかったのかなあ」
またある人いわく、
「当時は自宅でレコードを聞けるのは金持ちだけでねえ。リクエストすると好きな音楽を聞ける喫茶店があったのさ。意中の娘をどうやってお茶に誘うか、そればっかり考えてたよ」
等々、時代背景を感じさせる貴重な思い出話を聞くことができる。
そして皆さん口を揃えて言うことには、
「あのときのナポリタンが忘れられない」
これだ。
そう、ナポリタン。
長きにわたって、ナポリ発祥のイタリア郷土料理だと信じられてきたスパゲッティの王だ。
DNAや放射性同位炭素などを用いた最新の研究成果では、戦後日本で生まれた洋食が直接の祖型だとされ、ナポリでは食べられないことが判明している。
しかし、さりとて近年ではそうでもなく、日本生まれのナポリタンが本場ナポリに逆輸入され、たいへん好評を博しているそうだ。
甘酸っぱいケチャップをまとった真っ赤なスパゲッティは口当たりもよく、大人も子どもも大好きな料理のひとつであろう。
粉チーズやタバスコといったアイテムによって、さらに味わいが変わっていくのも魅力だ。
伝統的に喫茶店軽食メニューの筆頭格として愛されてきたナポリタンは、とかくノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
そういえば、ナポリタンに絡んで不思議な体験をしたことがある。
仕事であるお得意先の方とお会いする用があり、先方指定の喫茶店で待ち合わせることになった。
まったく初めての街ということもあったのだけど、なんとも複雑に入り組んだ路地がややこしく、気が付くとすっかり道に迷ってしまっていた。
それにしても、ずいぶんと古めかしいというかノスタルジックな町並みだ。
木の電柱なんか久しぶりに見たし、リヤカーの豆腐屋さんがラッパを吹きながら通り過ぎていく。
どことなく道行く人たちの装いもゆかしく、まるで昭和40年代頃にタイムスリップしたかのようだ。
しばらく歩き回って、「純喫茶シルビア」と看板のかかった待ち合わせ場所にようやくたどり着いた。
約束の時間ギリギリで、駆け込むようにしてドアを開けた。
すると「カランコロン」とベルが鳴り、ツンと煙草の匂いが鼻を刺激した。
客席を見渡すと、幸い先方さんはまだいらしていない。
それにしても、店内はすさまじいまでのレトロ感にあふれている。
耳を澄ますと、たしかにどこかで聞いた覚えのある、かつて一世を風靡した渡来系アイドルのレジェンドな曲が聞こえてくる。
席に着こうとしたら、ローテーブルのガラス天板がディスプレイになっているのに気が付いた。
手前にはボタンとかスティックとかが備え付けられ、不思議に思っていたけど唐突に分かった。
ああ!これが喫茶店のインベーダーゲームなんだ!
そういえば奥の席で、長髪の青年が一心不乱に卓にかじりついている。
かたわらにはコーヒーカップと、食べかけのナポリタン。
ゲームに熱中するあまり、すっかり冷めてしまっていそうだ。
注文をとりにきたシブいマスターに、とりあえずコーヒーを頼んでぼんやりしていると、先ほどの青年がチラチラとこちらをうかがっていることに気が付いた。
何度目かに目が合ったとき、青年がもっさりと近づいてきてぼくの目の前に腰掛けた。
「兄さん、わりいけど小銭貸してもらえないすか」
レトロなたかりかと思って身構えたけど、
「あとちょっとで新記録なんすよ」
インベーダーゲームのことだ。
思いのほか真剣な青年の様子に、ぼくはおかしくなってしまって、
「借金で記録出しても、すっきりしないんじゃないかな?」
と、探りを入れてみた。
すると青年はハトが豆鉄砲を食らったような顔をして、
「そうか……。そうだよな……。……その通りだ」
と頭を抱えて呟きだした。
なにか触れてはいけない部分だったのかと心配になりかけたその時、青年はガバッと身を起こして張りのある声でこう叫んだ。
「目が覚めたぜ、兄さん!あんたの言う通りだ!」
そして何やら雄たけびをあげながら、ものすごい勢いで店を、つまり「純喫茶シルビア」を飛び出していってしまった。
呆気にとられて視線を向かいの席に戻すと、ぺったんこの革財布が落ちている。
「届けてやっちゃあ、もらえませんか」
シブいマスターがシブい声で柔和に微笑む。
「奴は将来、大物になります」
コーヒー代は迷惑料ってことで、どうかお願いします。
そこまで言われたのなら仕方ない。
ぼくは青年の財布をひっつかみ、全力で彼の後を追った。
思いのほかあっけなくその後ろ姿が射程に入ったが、折悪しく遮断器が降りた踏切の向こうだ。
ぼくは大声で彼を呼び止め、財布を放り投げてやった。
それはそのままどこまでも飛んでいってしまいそうな、軽い軽い財布だった。
「それでそれで?それからどうなったの?」
伊緒さんが身を乗り出して話の続きをせがむ。
「その後すぐシルビアに戻ったんですが、そこにはファーストフードのお店が建っていました。街並みも、昭和レトロではありません。そこでばったり、待ち合わせのお客さんと合流しました。妙なことに時間はぴったりです」
「へええ」
「その人は若い頃、昔そこにあった喫茶店に入り浸ってインベーダーゲームばかりしていたそうです。でも、通りすがりのお客さんにかけられた一言で一念発起して、いまの会社をつくったと言っていました。今度書く社史にはそのエピソードを載せたいそうです」
伊緒さんは何度もうなずきながら、
「きっと”時のはざま”に招待されたんだわ。素敵ね!」
と、しきりに感心している。
世の中には不思議なことがいくらでもあるので、ぼくもそう思うことにした。
このお話の後で伊緒さんがつくってくれたのは、やっぱり「ナポリタン」だ。
それもできるだけ技巧をこらさず、ケチャップ一本勝負のクラシックタイプのナポリタン。
具は魚肉ソーセージに玉ねぎとピーマン。
以上。
とはいえ、ほんの少しのおろしニンニクと、ちょっぴりのお醤油という隠し味で、伊緒さんらしい工夫が加えられている。
舌の付け根がきゅっと刺激されるような、ぽってり甘いスパゲッティには、これ以上ないほどノスタルジーを感じる。
子どもの頃によく食べた、というわけでもないのに本当に不思議な料理だ。
粉チーズとタバスコで味に変化をつけるのもすごく楽しい。
「伊緒さん、すごくおいしいです」
口の周りをぺたぺたに赤くして、ぼくが言う。
「そう、よかった。今度はトマトピューレと赤ワインで、大人味のナポリタンつくってあげるね」
と、伊緒さんが約束してくれる。
もしもう一度、時のはざまに迷い込むようなことがあったら。
そのときはぜひ、その時代のナポリタンを口にしてみたい。
コメント